「後円融天皇」の版間の差分

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[[貞治]]7年([[1368年]])に[[足利義満]]が[[征夷大将軍|将軍]]に就いたが、年若いために管領細川頼之が後見しており、[[応安]]7年([[1374年]])までは後光厳上皇による[[院政]]が行われていた。[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])には[[新後拾遺和歌集]]となる[[勅撰和歌集]]を義満の執奏により下命。[[南朝 (日本)|南朝]]対策など政治は膠着状態であったが、[[春日神木]]の入洛など[[寺社勢力]]による[[強訴]]が相次ぎ朝廷儀式は衰退するなど、深刻な状況であった。康暦元年([[1379年]])閏4月に[[斯波義将]]などの動きで頼之が失脚すると義満の政治手腕が発揮され朝廷の再建に当たるとともに、徐々に朝廷の事務にも介入を始める。[[永徳]]2年([[1382年]])[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]に息子の[[後小松天皇]]に譲位して、上皇として[[院政]]を敷くが、義満が院別当となった上、朝廷の事務に積極的に介入したため実権はなかった。
 
永徳3年([[1383年]])の元旦、[[仙洞御所]]を訪問した足利義満との面会を拒否した。以後、義満は仙洞に参内せず他の公卿も遠慮したため、仙洞の機能が停止することになる。2月1日には出産を終えて宮中へ戻った妃の厳子に対して義満との[[密通]]を疑ってこれを殴打、母親の広橋仲子の説得や義満による医師の派遣も効果がなく、11日には愛妾の按察局が義満との[[密通]]を疑われて出家させられた。困惑した義満は[[二条良基]]と協議して、15日に上皇の信頼が厚い[[裏松資康]]・[[広橋仲光]]を派遣して上皇の相談に当たらせようとしたが、これを聞いた上皇は義満が自分を[[配流]]しようとしていると思い込み、持仏堂に籠って[[切腹]][[自殺]]を図るなどの騒動を起こしている<ref>『[[後愚昧記]]』・『[[荒暦]]』</ref>。18日に義満が院に出向いて宥めるとようやく上皇の心理は和らいだものの、[[治天の君]]の権威は失墜して再び蘇ることはなかった。[[一条経嗣]]は「聖運之至極」(皇室の命運が極まった)と書き記している<ref>『荒暦』永徳3年1月9日条</ref>。[[明徳]]3年([[1392年]])閏10月に義満の斡旋によって南朝との和平が成立して南北朝時代が終結したが、明徳4年([[1393年]])4月26日に[[崩御]]。宝算3536。崩御直前に[[落飾]]して法名を'''光浄'''と称した。
 
近年の説として、朝廷の再建を巡る方針などで足利義満と後円融天皇が対立した結果、義満は後円融天皇を退位させて治天の権限を剥奪した上で、自らが新帝・後小松天皇の後見(父代わり)になって朝廷再建を進める路線に至ったとして、従来"[[足利義満#皇位簒奪と暗殺説|足利義満の皇位簒奪計画]]"の証拠とされてきた事項の多くは「足利義満と後円融天皇の対立」という個人的な対立を「幕府と朝廷の対立」に拡大解釈したものに過ぎないとする説がある<ref>石原比位呂「足利義満の対朝廷政策」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6</ref>。