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== 生涯 ==
[[1360年]]開京([[開城]])に生まれる。1386年に、[[高麗]]の文科に合格し[[
[[1406年]](太宗6)に、使臣の侍従に明を行っており、帰国後の[[漢城府]][[判尹]]になった。[[1408年]][[司憲府]][[司憲府#構成|大司憲]]在職時に、彼は[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]王の許可もなしに府馬[[趙大臨]]を鞫問]て太宗の怒りを買って[[韓州]]で流刑されたが、[[領議政]][[成石璘]]の弁護に釈放され、後の彼は再起用されて[[礼曹]][[参判]]を経て1416年[[礼曹]][[判書]]に昇進、[[
[[太宗]]が[[讓寧大君]]を[[王世子]]職を剥奪しようとすると、彼は[[王世子]]職を剥奪反対した。しかし[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]即位後も[[吏曹]][[判書]]に登用された。[[1419年]](世宗1)[[吏曹]][[判書]]に[[芸文館]][[大提学]]職を兼任した。[[1425年]]使臣として[[明]]を行った。1427年(世宗9)[[議政府]][[右議政]]になって、[[1429年]][[太宗実録]]の編纂に参加しと[[1431年]][[左議政]]に任命されて[[春秋館]]領事を兼任して「[[八道地理志]]」の作成と発行に参加した。
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