「エクトル・ベルリオーズ」の版間の差分

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[[1830年]]2月に『[[幻想交響曲]]』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。[[12月5日]]に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。
 
[[1831年]]、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者[[イグナツ・プレイエル]]の長男[[カミーユ{{仮リンク|カミーユ・プレイエル]]|en|Camille Pleyel}}と結婚するという報告であった。この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。『回想録』には、マリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発したのだった。しかしイタリア([[サルデーニャ王国]])とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻したのであった。
 
この出来事の後、ベルリオーズは[[ニース]](当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1ヶ月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。そして正式にモークとの婚約は解消された。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『[[レリオ、あるいは生への復帰]]』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成している。
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ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている{{誰2|date=2010年10月}}。これは、[[ウェルギリウス]]の数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来た[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]劇の劇団の[[俳優|女優]]で[[アイルランド人]]の[[ハリエット・スミスソン]]への片想いは、やがて『[[幻想交響曲]]』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ[[1830年]]に[[ローマ賞|ローマ大賞]]を受賞する。
 
スミスソンに最初こばまれると、ベルリオーズはマリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家の[[{{仮リンク|カミーユ・プレイエル]]|en|Camille Pleyel}}に嫁がせた。ベルリオーズはその頃、ローマ大賞の賞金(奨学金)を得て[[ローマ]]に留学中であった。『回想録』によれば、この時パリに引き返し、女中に変装してモーク母子を殺害し、自殺を図ろうと企んだが、[[ニース]]にたどり着くまでに女装用の服を紛失したため気が変わった。
 
ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために、彼女は求愛を断ったのであるが、こうした感情によって引き起こされたといわれる『[[幻想交響曲]]』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この[[標題音楽]]的な作品の[[自叙伝]]的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたで{{要出典範囲|date=2010年10月|あろう}}。ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンは『幻想交響曲』の演奏を聴きに来た上、ついには結婚に至った。スミスソンは馬車から落ちて重傷を負ったこともあって、女優として下り坂にあったことも理由で{{要出典範囲|date=2010年10月|あろう}}。