削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
32行目:
|align="center"|3||白雉5年<br />([[654年]])||斉明元年<br />([[655年]])||[[高向玄理]]([[押使]])・[[河辺麻呂]](大使)・[[薬師恵日]](副使)||[[書麻呂]](判官) ||align="center"|2||高向玄理は608年の遣隋使で留学し、30年を大陸で学び、隋の滅亡と唐の建国を目の当たりにしている。その後も646年に[[遣新羅使]]として外交派遣された人材であり、「大使」より格上の「押使」であった。しかしこの渡航で唐で病没し帰国できず。654年2月に出発。往路は北路で山東省に到着し、長安にて高宗と謁見した。謁見の際、日本の位置や神話を尋ねられた。唐側の記録として『[[旧唐書]]』に「[[永徽]]5年12月に、倭国が[[メノウ|瑪瑙]](めのう)を献上した」とある<ref>『旧唐書』高宗本紀</ref>。654年8月、帰朝。
|-
|align="center"|4||斉明5年<br />([[659年]])||斉明7年<br />([[661年]])||[[坂合部磐鍬|坂合部石布]](大使)・[[津守吉祥]](副使)||[[伊吉連博徳|伊吉博徳]]||align="center"|2||7月3日に出航。8月11日に博多を出て江南路を選択した。第2船の副使・津守吉祥らは10月1日に越州(浙江省紹興)に着き、[[駅馬]]で長安に入り[[洛陽]]にて皇帝に拝謁。大和朝廷の服属国民として[[蝦夷]]人男女を伴っており、皇帝に献上している。同年11月1日、冬至の儀に参加。しかし一行はその後、[[韓智興]]の従者([[東漢草足嶋]]か?)による讒言、唐と百済の戦役の都合などにより暫く長安に幽閉・抑留される。660年8月の百済滅亡により9月12日に抑留は解かれ、19日に陽へ向かった。一方の第1船は往途で9月13日に百済の南の島に到着した。9月15日日没後、逆風で遭難し、南海の島「爾加委」に漂着し略奪に遭い、大使の坂合部石布が殺された。[[東漢長阿利麻]]・坂合部稲積ら生き残った5人は島の船を奪って大陸に至り、役人に護送されて陽に運ばれた。その後どうなっていたかは不明だが、長安の2船の一行同様、陽にて抑留されていたと推測される。監禁が解け陽に移動した津守吉祥らと翌660年10月19日に再会した。11月1日に捕虜となった百済の[[義慈王]]ら王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が唐の朝廷に護送されるのを目撃。24日、長安を出発。翌661年4月1日に越州から帰国の途についた。7日、[[舟山郡島]]の[[須岸島]]南岸に到着。翌8日夜明けに出発するも、暴風に遭い9日間漂流。[[耽羅]]([[済州島]])に漂着し、耽羅国王子の[[阿波伎]]等9人を伴って帰国(『[[遣耽羅使]]』も参照)。この回の遣唐使に関しては、[[伊吉博徳#『伊吉博徳書』|『伊吉博徳書』]]・『難波吉士男(津守吉祥)人書』が日本書紀に引用されたために道中が比較的詳しい。
|-
|align="center"|5||天智4年<br />([[665年]])||天智6年<br />([[667年]])||colspan="2"|[[守大石]](送唐客使)・[[坂合部磐積|坂合部石積]]・吉士岐彌・吉士針間|| ||665年9月に(定恵と共に)来日した唐使の[[劉徳高]]を送る。高宗の封禅の儀への参列を求め、唐との関係改善を狙ったと推測されている。667年11月、唐使の将軍・劉仁願、文官・[[司馬法聡]]と共に帰国。帰国の際の代表は坂合部石積となり、守大石は唐に留まったか、現地で死亡したと推測される。