「ピエトロ・アンドレア・マッティオリ」の版間の差分

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[[シエーナ]]で医師の息子に生まれ、[[ヴェネツィア]]で育った。1523年にパトヴァ大学で医学の学位を取り、その後[[枢機卿]]などの医師を務め、シエーナ、[[ローマ]]、[[トレント (イタリア)|トレント]]、[[ゴリツィア]]で働いた。ローマで最初の植物学の著作を行った。1554年か1555年に後に[[神聖ローマ帝国]]皇帝となる[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]、[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]父子の侍医となり、[[オーストリア]]の[[アンブラス城]]や[[ウィーン]]で仕えた。1564年にマクシミリアン2世が没した後、1568年にイタリアに戻り、1577年にトレントで流行病のために没した。
 
医学に関する著作に加えて、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『[[ゲオグラフィア]]』などのラテン語やギリシャ語の著作からイタリア語への翻訳をおこなった。特に、[[ペダニウス・ディオスコリデス|ディオスコリデス]]の本草書、『薬物誌』の翻訳と解説が有名となった。1544年に[[ジャン・リュエル]]のラテン語訳を元に、図版なしで最初の翻訳・注釈本が出版され、1548年に増補版の解毒剤に関する著作が加えられ、1550年と1551年にも増補版が出版された。1554年には『ディオスコリデスの著書への注解』(Commentarrii in sex libros Pedacii Dioscoridis)が出版された。それまで広く流布されていたジャン・リュエルの注釈本とは一部の解説が異なり、583の木版画が添付された。
 
当時の有名な本草学者、[[オットー・ブルンフェルス]]や[[ヒエロニムス・ボック]]、[[レオンハルト・フックス]]らの著作に記載のない多くの植物を記述した。1544年に新大陸から伝わった[[トマト]]について記述し、[[セイヨウトチノキ]]の薬効について記述したことなどで知られる。