「極楽寺 (鎌倉市)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
画像追加
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
23行目:
== 歴史 ==
=== 草創 ===
[[永禄]]4年([[1561年]])成立の『極楽寺縁起』によれば、当はもと深沢(現・鎌倉市西部)にあった[[念仏]]系の寺院(開山は正永和尚)を、[[正元 (日本)|正元]]元年([[1259年]])、[[北条重時]]が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移したものであるという。ここに極楽寺が建てられたのは、現実には死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりする「地獄」ともいうべき場所になっていたためとの指摘がある<ref>[[藤野豊]]編『神奈川の部落史』p.23(不二出版、2007年)</ref>。北条重時は、[[北条義時]]([[鎌倉幕府]]2代[[執権]])の三男で、[[北条泰時]](3代執権)の弟にあたる。重時は[[六波羅探題]]として17年間にわたり京都の最高責任者を務めた後に鎌倉に戻り、[[宝治]]元年([[1247年]])から鎌倉幕府の[[連署]]として5代執権[[北条時頼]]を補佐した。[[康元]]元年([[1256年]])には剃髪して仏門に入り、観覚と号している。[[弘長]]元年([[1261年]])に重時が没した後は、その子の[[北条長時]](鎌倉幕府6代執権)ならびに[[北条業時]]が父の遺志を継いで、極楽寺の[[伽藍]]を整備したという。なお、『[[新編相模国風土記稿]]』には、寺の元の所在地を藤沢(神奈川県藤沢市)としている。また、『極楽寺由緒沿革書』という別の縁起には[[永久 (元号)|永久]]年間(1113 - 1118年)、僧[[勝覚]]の創建とするなど、寺の起源には諸説あって必ずしも明らかでない。重時は「極楽寺殿」と称され、その系統は[[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流]]と呼ばれた。
 
史書『[[吾妻鏡]]』には、弘長元年([[1261年]])4月、北条重時が時の将軍・[[宗尊親王]]を「極楽寺新造山荘」に招き、[[笠懸]](馬上から的を射る競技)を行ったとの記事があり、この時点での極楽寺の存在と重時との関係が確認できる。重時は同じ弘長元年の11月に没した。