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=== 安東氏からの独立と蝦夷支配の確立 ===
[[出羽国]][[比内郡]]の[[浅利氏#比内浅利氏|浅利氏]]解体など宗家・安東家(愛季)の勢力拡大に協力し安東家中での発言力を確保した。天正18年([[1590年]])に[[豊臣秀吉]]が[[小田原征伐]]を終え[[奥州仕置]]をはじめると、主家・[[秋田実季|安東実季]]の上洛に蝦夷地代官として帯同した。慶広は[[前田利家]]らに取りいって、同年12月<!-- 29日 --> ([[1591年]]1月)、秀吉に謁見を果たすと、所領を安堵と同時に従五位下・民部大輔に任官された。これにより名実共に[[蝦夷管領]]の流れを汲む[[安東氏]]からの独立を果たしたとみられている<ref>{{cite bookCitation|和書|chapter=松前藩|editor1=木村礎|editor2=藤野保|editor3=村上直|title=藩史大事典|volume= 第1巻 北海道・東北編|others=木村礎・藤野保・村上直編|publisher=雄山閣|year=2002}}
</ref>。慶広は天正18年9月 (1590(1590年10月) に津軽海峡を渡り、同年末 (西暦では翌年初め) に上洛している<ref>{{cite bookCitation|和書|title=新・国史大年表|volume= 第4巻 (一四五六~一六〇〇)|otherseditor=日置英剛|publisher=国書刊行会|year=2009}}</ref><ref>『郷土史事典 北海道』p31</ref>{{Sfn|高倉|1980|p=31}}
 
天正19年([[1591年]])、南部地方で[[九戸政実の乱]]が起きると、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加した。『[[三河後風土記]]』には、アイヌが用いた毒矢が大変な威力であることが記されている<ref>[http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ 八雲町公式HP デジタル八雲町史][http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html 第4章松前藩の成立 第1節][http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-054102&IMG_SIZE=1000%2C800&IMG_NO=1639 国文学研究資料館・電子資料館 三河後風土記]</ref>。
 
[[文禄]]2年([[1593年]])1月に[[肥前国]][[名護屋城]]で兵を率いて[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]前の秀吉に謁見した。秀吉は「狄の千島の屋形」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、従四位下・[[近衛府#少将|右近衛権少将]]に任じようとするが、慶広はこれを辞退した<ref>{{Citation|和書|chapter=武田家中興の祖松前慶広|editor=沢石太|title=北海道開拓五十年史 史伝及人物編p3|publisher=鴻文社|year=1921|page=3}}</ref>。慶広は代わりに蝦夷での徴税を認める朱印状を求め、秀吉はこれを認めると共に志摩守に任じた。慶広は朱印状を領民に示すと共に、アイヌを集めてアイヌ語に翻訳し、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、全蝦夷地([[樺太]]、[[北海道]])の支配を確立した<ref>『郷土史事典 北海道』p31{{Sfn|高倉|1980|pp=31-33</ref>}}
 
=== 徳川政権期 ===
[[慶長]]3年([[1598年]])に秀吉が死去すると、[[徳川家康]]と誼を通じた。[[慶長]]4年([[1599年]])、家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上した。また、[[アイヌ語]]「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めた。慶長5年(1600年)には家督を長男・[[松前盛広|盛広]]に譲り、盛広も従五位下、若狭守を賜ったが、その後も慶広が政務を司った。慶長8年(1603年)には江戸に参勤して百人扶持を得た。翌9年([[1604年]])、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下伊豆守に叙位・任官された。これらを以って、松前氏を大名格とみなし、慶広を松前藩の初代藩主とする<ref>『郷土史事典 北海道』p32{{Sfn|高倉|1980|pp=32-33</ref>}}が、正式な家格は[[交代寄合]]である。
 
慶長14年(1609年)に[[猪熊事件]]が起きて[[近衛府|左近衛少将]]・[[花山院忠長]]が蝦夷・[[上ノ国町|上ノ国]]に配流された。慶広は忠長を城下の福山(松前)で賓客として厚遇した。忠長は5年で津軽へ移されるが、京都の公家に誼を得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めるとともに、松前に京都の公家文化をもたらした<ref>『郷土史事典 北海道』p33</ref>{{Sfn|高倉|1980|p=33}}
 
慶長15年([[1610年]])と慶長17年([[1612年]])の二回にわたり、徳川家康に[[海狗腎]]([[オットセイ]])を献上している(『当代記』)<ref>[[{{Cite journal|和書|author=宮本義己]]「|authorlink=宮本義己|title=徳川家康公と医学」(『||journal=大日光|issue=66号|year=1995年)}}</ref><ref>{{Citation|和書|author=宮本義己|chapter=徳川家康と本草学」(|editor=笠谷和比古編『|title=徳川家康―その政治と文化・芸能―|publisher=宮帯出版社|year=2016年)}}</ref>
 
慶長20年([[1615年]])の[[大坂の陣|大坂夏の陣]]には徳川方として参陣した。なお、慶長19年([[1614年]])に[[豊臣氏]]に通じたとして、親豊臣派であった四男・[[松前由広|由広]]を誅殺している。
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== 人物 ==
姓の松前は、五大老の徳川家康の旧姓・松平の「松」と[[前田利家]]の「前」から取っているというのは俗説である。
 
== 参考文献 ==
*「松前藩」(木村礎・藤野保・村上直編『藩史大事典』第1巻 北海道・東北編雄山閣、2002年)
* 日置英剛編『新・国史大年表』第4巻 (一四五六~一六〇〇)(国書刊行会、2009年)
*「島主松前藩の成立」(高倉新一郎編『郷土史事典 北海道』昌平社、1980年)
*「武田家中興の祖松前慶広」(沢石太編『北海道開拓五十年史』鴻文社、1921年)
* [[宮本義己]]「徳川家康公と医学」(『大日光』66号、1995年)
* 宮本義己「徳川家康と本草学」(笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年)
 
== 脚注 ==
=== 註釈 ===
{{Reflist|group="註"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|chapter=島主松前藩の成立」(|editor=高倉新一郎編『|title=郷土史事典  北海道|publisher=昌平社|year=1980年)|ref={{SfnRef|高倉|1980}}}}
 
{{松前氏歴代当主|[[蠣崎氏]]第6代当主(1583年 - 1599年)/松前氏|1599年 - 1616年|初代}}
{{松前藩主|初代|1616年}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:まつまえ よしひろ}}
[[Category:蠣崎氏|よしひろ]]
[[Category:松前氏|よしひろ]]