削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
120行目:
 
=== 主な湖沼 ===
*[[ピリトゥン湖|弁連沼]]([[#北樺太(北サハリン)|北樺太]])
*[[多来加湖]]
*[[富内湖]]
196行目:
 
=== 北樺太(北サハリン) ===
北樺太は、[[樺太・千島交換条約]]以来のロシア領であり、[[ロシア帝国]]時代は[[沿海州]]に属した。[[ソビエト連邦]]成立当初は[[シベリア出兵]]時発生した[[尼港事件]]を受け、[[1920年]]7月〜[[1925年]]5月15日の約5年間日本の[[サガレン州派遣軍]]による保障占領下にあった。1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退すると[[ハバロフスク地方]]として置かれ、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市は[[オハ]]や[[アレクサンドロフスク・サハリンスキー]](日本名:オッチシ・落石、アイヌ語由来。ニヴフ名:イドイー)である。[[オハ油田]]、[[サハリンプロジェクト]]([[サハリン1]]、[[サハリン2]])が代表的な石油産業である。
 
== 歴史 ==
[[氷河期]]には大陸と陸続きだった。[[古代]]以前は[[続縄文時代|続縄文人]](南部に進出)や、[[オホーツク文化]]人([[日本書紀]]に記される[[みしはせ|粛慎]])などが存在し、[[鎌倉時代]]以降は南部に[[アイヌ]]民族や[[和人]]が進出、東岸中部(幌内川とロモウ川の流域)に[[ウィルタ]]民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部に[[ニヴフ]]民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は西岸を「スメレンクル」、東岸を「ニクブン」と呼んだ)などの北方少数民族もいた。
 
=== 日露競合前 ===
205行目:
* [[640年]] - 「流鬼」([[オホーツク文化]]人?)が[[唐]]に入貢。
* [[660年]](斉明天皇6年)3月 - 阿倍比羅夫、『日本書紀』に記される粛慎を討つ。比羅夫は、粛慎に攻められた[[渡島国|渡島]]の蝦夷に[[石狩川|大河]]のほとりで助けを求められ、幣賄弁島まで追って粛慎と戦う。能登馬身龍が戦死するもこれを破る。
* [[762年]]([[天平宝字]]6年)12月1日 - [[陸奥国]]([[陸前国]])の[[国府]]・[[多賀城]]に修造された[[多賀城碑]]に「去[[靺鞨|靺鞨(まっかつ)国]]界三千[[里#日本|里]](1,600km)」と記される。ちなみに、多賀城碑からの直線距離は、[[間宮海峡]]最狭部([[ネヴェリスコイ海峡|黒龍水道]])で約1,530km、それより北の黒龍江河口付近で約1,600kmである。
* [[1217年]] - [[安東氏|安藤太]]が[[蝦夷管領|蝦夷沙汰職・蝦夷代官]]り、[[蝦夷#えぞ|蝦夷]]([[樺太アイヌ|唐子エゾ]])を統括(『[[諏訪大明神絵詞]]』)。唐子エゾ、樺太を北上
* [[1264年]] - モンゴロイドの少数民族である[[ニヴフ|迷(ギレミ、吉烈滅)]]が「骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくる」と訴えたため、[[モンゴル帝国|蒙古帝国]](1271年から、が[[モンゴルの樺太侵攻|3000人の軍勢を樺太に派兵]]し、住民の「骨嵬(唐子エゾ)」を攻撃。
* [[1284年]]〜[[1286年]] - 元、聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、骨嵬征伐が20年ぶりに実行される。
* [[1295年]] - [[日持]]が[[日蓮宗]]の布教活動の為に樺太へ渡り、[[本斗郡]][[本斗町]]阿幸に上陸し、布教活動を行ったとされる。
* [[1297年]]([[永仁]]5年)5月 - 蝦夷沙汰職・蝦夷代官[[安藤氏]]が[[蝦夷#えぞ|蝦夷]]([[樺太アイヌ|唐子エゾ]])を率いて[[外満州]][[黒龍江]]流域に侵攻し[[キジ湖]]付近で元と交戦<ref name="ezo">エゾの歴史 海保嶺夫 ISBN 978-4061597501 初版96年</ref>
* [[1308年]] - 吉里迷を仲介として、骨嵬が毛皮の[[朝貢]]を条件に元朝への和議・帰順を申し入れた。以降、骨嵬と元朝の戦いは終了。([[安藤氏の乱]]も参照)
* [[1336年]]〜[[1392年]]([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])の[[具足]]([[甲冑]])が樺太から出土している。
* [[1368年]] - 元が[[中国大陸]]の支配権を失い北走、[[満洲]]方面を巡って新興の[[明]]を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。
* [[1411年]] - [[明]]は進出した黒龍江(アムール川)下流域、外満州のティルに奴児干都司設置。周辺諸民族に対し[[冊封]]を行う際、樺太北部3箇所の先住民首長にも名目的に[[衛所#羈縻衛|衛(羈縻衛)]]指揮官の称号を付与<ref>古代の日本 第九巻、東北・北海道、角川書店 ISBN 4-04-522009-7</ref>。これを介し南樺太以南に住むアイヌ民族と交易する([[山丹交易]]も参照)。
** [[1410年]] - 北樺太東岸[[トゥイミ川|ロモウ川]]流域の先住民(ウィルタ)首長が明に[[朝貢]]、兀列河(ウリエホー)衛の指揮官の称号を授与される。
** [[1412年]] - 北樺太西岸リャングルの先住民(ニヴフ)首長が明に朝貢、嚢哈児(ナンハル)衛の指揮官の称号を授与される。
** [[1428年]]までに、樺太中部[[幌内川 (樺太)|幌内川]]流域の先住民(ウィルタ)首長が明に朝貢、波羅河(ポロホー)衛の指揮官の称号を授与される。
* [[1435年]] - 奴児干都司が廃止され、樺太北部3衛の先住民は明への朝貢から解放される。
* [[1485年]] - 樺太アイヌの首長が、[[蝦夷管領]]・[[安東氏]]の代官[[武田信広]]([[松前氏|松前家]]の祖)に銅雀台を献じ('''ウィマム'''<ref>ウィマムとは藩主や役人にお目見えすること。</ref>し)配下となる。
* [[1593年]] - [[豊臣秀吉]]は[[松前慶広]]に先住民であるアイヌの保護を行うとともに、諸国から集まる人々を取り締まり、従来どおりこれらから税を取り立てる権利を認めた <ref>『熊石町史』熊石町発行(1987年9月)</ref>。
* [[1603年]] - [[松前藩]]によって[[宗谷郡|宗谷]]に[[利尻郡|利尻]]・[[礼文郡|礼文]]・樺太を司さどる役宅が置かれた。
232行目:
* [[1752年]]([[宝暦]]2年) - ソウヤ場所から樺太場所が分立([[場所請負制]]を参照)。
* [[1787年]] - フランス海軍の軍人[[ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー|ラ・ペルーズ]]が2隻の[[フリゲート]]艦で樺太西岸を探検。
* [[1790年]] - 樺太南端の[[本斗郡]][[好仁村]]白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。藩の出先機関の機能も兼ね備えた運上屋では、撫育政策として[[オムシャ]]なども行われた
* [[1798年]] - 東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が[[天領|公議御料]]([[江戸幕府|幕府]]直轄領)となり、[[場所請負制]]を通じて東蝦夷地のアイヌ人の[[宗門人別改帳]]が作成される。
* [[1806年]]([[文化 (元号)|文化]]3年) - 日本との通商を拒否された[[ニコライ・レザノフ]]の部下のロシア海軍士官らが報復のため久春古丹を焼き討ちにする([[文化露寇]]、1806〜1807年)。弁天社<ref>[http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/14162/2/11-05%20本文.pdf 「旧樺太時代の神社について -併せて北方領土の神社について-」]</ref><ref>[http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/10946/1/05%20非文字27.pdf 「樺太の神社の終戦顛末」 前田 孝和]</ref>の[[鳥居]]に[[黄銅|真鍮]]でできた板を取り付け「樺太の占領」「先住民はロシアに服従した」と意味する内容が記された。
* [[1807年]](文化4年) - ロシア海軍士官らが[[択捉島]]、[[礼文島]]などとともに[[留多加郡|留多加]]を襲撃する。警備のため幕府が[[秋田藩]]・[[弘前藩]]・[[仙台藩]]・[[会津藩]]などに蝦夷地への出兵を命じる。西蝦夷地(唐子エゾ居住地である北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)も公議御料とし、以降樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の[[宗門人別改帳]]が作成されるようになる。
::以下に幕府が把握した北蝦夷地(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。
::{|class="wikitable" style="font-size:small"
254行目:
|}
* [[1808年]] - 江戸幕府が、[[最上徳内]]、[[松田伝十郎]]、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端[[ラッカ岬]](北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。
* [[1809年]] - [[間宮林蔵]]は樺太が[[島]]であることを確認。正式に西蝦夷地から分立、呼北蝦夷地と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献<ref>[https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/files/00006900/00006975/dai5syou.pdf 樺太詰松田伝十郎の山丹交易改革 稚内市]</ref>した。また、[[山丹貿易]]を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。<!--(誤解を与える記述です。山丹貿易は外国との貿易なので、アイヌが日本人ならば鎖国政策に反します。)来航する山丹人との交易なので矛盾しない。日本人が交易できないと言うなら、長崎交易すらできないことになる-->
* [[1821年]] - 幕府、全蝦夷地を[[松前藩]]に返還する。
* [[1846年]]([[弘化]]3年) - [[松浦武四郎]]が草履取・運平と名乗り、はじめて渡樺。北蝦夷地勤務を下命された藩医・西川春庵に随行。
* [[1848年]] - ロシアの東シベリア総督[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー|ムラヴィヨフ]]は海軍軍人[[ゲンナジー・ネヴェリスコイ]]にアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。間宮海峡を初めて船舶で通過した。
 
=== 日露の領土競合時代 ===
* [[1853年]]
** ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹に[[ムラヴィヨフ哨所]]([[砦]])を築き、国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。[[哨所]]を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した。('''[[ロシア軍艦対馬占領事件]]'''も参照)
** ロシア使節[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]来日。[[長崎市|長崎]]に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権[[筒井政憲|筒井肥前守]]・[[川路聖謨]]と交渉したが決裂。[[北緯]][[50度線]]分割案も検討されたが、日本に属するアイヌの居住地(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ([[元泊郡]][[元泊村]]婦礼班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない[[無主地]]として国境交渉。当時、樺太の住民は南部の日本人(アイヌ及び[[和人]])、東岸中部以北のウィルタ、北部のニヴフのみ。間宮海峡対岸の外満州でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった<ref>[http://www.meijigakuin.ac.jp/~prime/pdf/prime12/prime12-2.pdf 「北海道」 ・ 「壌中」 の植民地化とその国際法の論理]</ref><ref>[https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=568&item_no=1&attribute_id=22&file_no=2&page_id=34&block_id=86 「日露和親条約」がカラフト島を両国の 雑居地と したとする説は正しいか?]
</ref>。
*[[1854年]](嘉永7年)[[千島列島]]、全'''樺太'''島や[[カムチャッカ半島]]までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)
* [[1854年]](嘉永7年)5月18日、[[クリミア戦争]]の影響を受け、ロシア船4隻が来航し駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った。
* [[1854年]](安政元年) - [[日露和親条約]]により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによることを決定(国境交渉先送り)した。
* [[安政]]年間(1854 年~[[1860年]])から明治初期にかけて、安房勝山藩、若狭小浜藩、下野黒羽藩、下野烏山藩、常陸笠間藩、美濃加納藩の各藩もタライカ湾の静香川近辺に警固の拠点を構えた。
* [[1855年]](安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、[[秋田藩]]が白主と久春古丹に[[陣屋]]を築き警固を行った。
* [[1856年]](安政3年) - 幕府、樺太東岸の[[中知床岬]]([[長浜郡]][[知床村|外知床村]])以北および西岸のノタサン([[野田郡]][[野田町 (樺太)|野田町]])以北を樺太直捌場所とした。箱館奉行所の支配組頭・[[向山源太夫]]が5~8月に樺太の調査のため訪れている。このとき[[松浦武四郎]]も同行
* [[1857年]](安政4年)
**越後出身の蝦夷地御用方・[[松川弁之助]]が東岸のオチョポカ([[富内郡]][[富内村]]落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する。
**北緯48度の地峡の両端にあたる西岸・クシュンナイ([[久春内郡]][[久春内村]])と東岸・マーヌイ([[栄浜郡]][[白縫村]]真縫)に少数のロシア兵が定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。これを除くと、当時、樺太に居住するロシア人はニヴフ居住地の北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。
**安政3年4年(1856・57)頃、クシュンコタンに大砲4基が設置された台場1カ所が存在。
* [[1858年]] - 幕府は[[大野藩]]主[[土井利忠]]に北蝦夷地警固と開拓を命じた(大野藩準領[[鵜城郡|ウショロ(鵜城)場所]])。ウショロ場所には、[[名好郡]]やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年、クシュンナイ周辺が[[箱館奉行]]石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
* [[1859年]] - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて[[品川 (東京都)|品川]]に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、1859年(安政6年)7月26日、虎ノ門[[天徳寺]]における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛[[遠藤胤統]]、[[酒井忠毘]]を通してこれを完全に退けた。
* [[1860年]]([[万延]]元年) - 亜庭湾岸周辺の警固は仙台・会津・秋田・庄内の4藩となる。
* [[1862年]] (文久2年)
**[[安房勝山藩]]、藩士渡辺隆之助を派遣、東岸のシスカ([[敷香郡]][[敷香町]])に漁場を開設。東岸でフヌプより北に居住するアイヌは60名で、[[多来加湾]]岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に[[多来加湖]]周辺ではニヴフやウィルタと混住していた。
**勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ([[真岡郡]][[真岡町]])、ワーレ(栄浜郡白縫村輪荒)、クシュンナイの5ケ所となる。
* [[1863年]]([[文久]]3年) - 亜庭湾岸周辺の警固は仙台・秋田・庄内の3藩となる。このほか、漁場の番人の武装化もおこなった。
* [[1865年]] - [[岡本監輔]]が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
* [[1867年]] - [[樺太島仮規則]]調印。樺太全島を日露雑居地<ref>[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5210/1/KJ00000113353.pdf 明治初年の樺太 : 日露雑居をめぐる諸問題]</ref>とされた。以降、ロシアは囚人を送込み軍隊を増派して北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・[[亜庭湾]]岸までの軍事的制圧に着手。
* [[1869年]] - 北[[蝦夷地]]を樺太と改称。以降、ロシアは囚人を送込み始める。
* [[1870年]][[2月13日]] - [[樺太開拓使]]が開拓使から分離して、[[久春古丹]]に開設される。
* [[1871年]][[8月7日]] - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
330 ⟶ 335行目:
* [[1920年]](大正9年)
** [[5月1日]]、[[大正]]9年勅令第124号(樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件)<ref>[{{NDLDC|2954436/1}} 勅令第124号] 官報 大正9年(1920年)5月3日</ref>公布。樺太に施行される法律に[[勅令]]により若干の地方的又は種族法的な性質を有する特例を設けるとされた。ただし、勅令第124号廃止まで内地に準ずる扱いは変わらず。
**[[シベリア出兵]]の際[[尼港事件]]の発生を受け、7月、この事件について責任と賠償を求め、[[サガレン州派遣軍]]を派兵し北樺太を占領<ref>[https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/52284/1/ES_62%283%29_031.pdf 保障占領下北樺太における日本人の活動 (1920-1925)竹野 学]</ref><ref>Vladimir Datsyshen,"The Russian-Japanese relations in Northern Sakhalin during the Japanese occupation (1920–1925)", Yearbook Japan, Institute of Oriental Studies of the Russian Academy of Sciences, 2014</ref>する。この事件の責任と賠償を求めるための措置
* [[1923年]](大正12年)
** [[5月1日]] - [[稚泊連絡船]]就航。