「電算写植」の版間の差分

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== 歴史 ==
日本における電算写植の歴史は、写研の「SAPTON」システムの歴史でもあるので、「SAPTON」システムを中心に記述する。[[DTP]]が普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。
=== 漢テレ ===
 
=== 漢字テレタイプ(漢テレ) ===
電算写植システムの前史として、漢字テレタイプ(通称「漢テレ」)と呼ばれるシステムがある。
 
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この当時のシステムは、記事の送信・受信装置、記事を紙テープに出力する鑽孔機、紙テープに内容を記録する漢テレ、紙テープの内容を読み取って鋳植する全自動活字鋳植機で構成されていた。まだ活字であり、写植ではなかったが、これらの装置が電算写植システムにも流用されることとなる。
 
その後、出版業界では写植の導入とコンピューターの導入がほぼ同時に進められ、まず写研が「SAPTONシステム」を実用化し、他の会社でも1970年代には「Computer Typesetting System」(CTS)と呼ばれるシステムが各社に構築されることとなる
 
=== アナログ写植機(第2世代電算写植機) ===
日本で初めて開発された電算写植機が、写研の「SAPTONシステム」である。この時期の電算写植機は、写植機の中で文字盤が歯車で物理的に動作しているというアナログな方式なので、後のデジタルフォントを利用した方式と対比して「アナログ写植機」と言う。世界的には「第2世代電算写植機」に相当する。
 
=== SAPTONシステム ===
1920年代に写研の[[石井茂吉]]と森澤信夫(のちにモリサワを創業)によって写植が発明されたが、写植は主に端物に用いられ、本文組みには従来通りの活字組版が用いられていた。写研は写植を本文組版へも使用されることをめざし、1960年に全自動写植機「SAPTONシステム」を発表。
 
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1972年の「SAPTON-Spits」システムでページ組版に対応。1976年には「サプトン時刻表組版システム」により、日本交通公社発行の時刻表が電算写植となった。
 
=== CRT写植機(第3世代電算写植機) ===
[[File:Linotype CRTronic 360.jpg|thumb|独ライノタイプ社のCRT写植機(海外版。モリサワより展開された「ライノタイプ」の日本語版は、モリサワ独自の打鍵装置が付く)]]
1970年代から1980年代にかけてはSAPTONシステムの小型化・低価格化・高機能化が進められた。仮印字した写植を確認するディスプレイが搭載され、メディアは紙テープからフロッピーディスクとなった。
 
1970年代後半に登場した電算写植機は、これまでの写植機のような文字盤を使用せず、コンピュータのメモリにデジタルフォントを記憶させ、コンピュータの指令に応じて所定の文字を取り出し、CRTの蛍光面上にその文字を表示させ、それを感材に露光して写植する方式であり、「CRT写植機」と呼ばれる<ref>[https://www.jagat.or.jp/past_archives/story/4364.html 電算写植の歴史-印刷100年の変革] - 公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)</ref>。文字盤を動かす「歯車」という機械的な稼働部品を無くすことで、さらなる印字の高速化が可能になった。文字の数が少ない欧米では1970年代後半の時点ですでに主流の方式で、日本でも更なる電算写植の高速化の為に求められていたが、日本語の写植では6000字を超えるデジタルフォントを扱う必要があるため、開発は難航していた。しかし写研が1977年に実現した。
 
まず、従来のSAPTONを改良し、従来と同じ文字盤の中から1文字を選択し、それをブラウン管に投影して文字情報を電子信号化するという「アナログフォント方式」のCRT写植機「SAPTRON-G1」が1977年に開発された。8書体までの文字が利用可能となった「SAPTRON-G8N」は、1980年にサンケイ新聞大阪本社に導入され稼働を開始した。
 
その後、写研が1976年より提携していた米オートロジック社のCRT写植機「APS-5」を和文化し、デジタル化された明朝体とゴシック体を搭載した「デジタルフォント方式」のCRT写植機である「SAPTRON-APS5」を1977年に発表。株式会社電算プロセス(現在の[[JTB印刷]])に導入され、時刻表の印刷がさらに高速化された。
 
=== レーザ写植機(第4世代電算写植機) ===
文字と画像を一括して出力するシステムが求められていた。そのため写研は、CRT写植機の開発のために写研が提携したオートロジック社の「APS SCAN」を利用し、図版原稿をレーザーでスキャンし、するスキャナの「SAPGRAPH-L」を1979年に発表。また文字と画像を一括して出力する「レーザ出力機」が1981の「SAPLS」を1979年に発表された(「レーザ写植機」は、PC用として使われている[[レーザープリンター]]と同じ原理で、紙にインクを飛ばすのではなく印画紙やフィルムに感光させて版を出力する点が違う)。また、レーザ出力機だとドットフォントでは実用に耐えない事から、これまでのようなドットのデジタルフォントではなく、レーザ出力機でも文字が崩れずに出力できる「アウトラインフォント」も開発された。[[DTP]]が普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。また、当時は日本の写植業界2位であったモリサワも、1980年より独ライノタイプ社と提携して同様のレーザ写植機「ライノトロン・システム」を展開している
 
写研による「レーザ写植機」の実用機は、1980年代前半より相次いで市販された。また、当時は日本の写植業界2位であったモリサワも、1980年に独ライノタイプ社と提携して電算写植機に参入し、同時期の写研の「SAPTONシステム」と同様のレーザ写植機「ライノトロン・システム」を展開している。
この「レーザ写植機」が、電算写植機の最終形態である。レーザ写植機は、1980年代から1990年代にかけて、「写真が高精細になる」「CRTが液晶になる」などの改良が行われた。
 
この「レーザ写植機」が、電算写植機の最終形態である。レーザ写植機は、1980年代から1990年代にかけて「写真が高精細になる」「CRTが液晶になる」などの改良が行われた。
 
「レーザ写植機」で実現された、「文字と画像の統合処理」「アウトラインフォント」などの流れの先に、DTPが登場する。レーザ写植システムで使用された「レーザ出力機」は、後にPostscriptに対応させ、初期のDTPでもMacからの出力機として流用されることとなる。
 
1985年に登場した史上初の「PostScript対応のレーザ出力機」が、モリサワが提携していたライノタイプ社の「ライノトロン・システム」で用いられてい、1985年発売の「ライノトロニック100」であった。
 
(なお、この当時使われていた「レーザ出力機」は、PC用として使われている[[レーザープリンター]]と同じ原理だが、紙にインクを飛ばすのではなく印画紙やフィルムに感光させる点が異なる。Postscriptに対応(つまり電算写植とDTPの双方に対応)したレーザ出力機を「イメージセッタ」と言う。電算写植またはDTPで制作した組版データを、「イメージセッタ」を使って一旦フィルムに出力し、それを元に改めて刷版を作成するという「CTF(Computer to film)方式」は、電算写植からDTPへの過渡期にかけてよく行われていたが、組版データから直接刷版を作成する「CTP(Computer to Plate)方式」や、刷版を作成せずに組版データをプリンターで直接印刷する「オンデマンド方式」と比較すると手間がかかる上に、フイルムに起因する品質不良が派生する恐れがあるため、DTPの標準化に伴ってほとんど行われなくなった。)
=== その他の電算写植システム ===
NELSONは、朝日新聞社とIBMが共同開発した電算写植システムである。1980年に稼働し、2005年まで使われた。
 
日経新聞社のANNECSも朝日新聞社のものと同時期にIBMが開発した。
 
凸版印刷は、1968年に電算写植システム「Computer Typesetting System」(CTS)を富士通と共同開発した。2006年に電算時代の編集組版ソフトウェアのコマンドをXMLベースで置き換え、Adobe Indesignのプラグインとして提供する「次世代CTS」となった。
 
=== DTPへの移行 ===
[[File:Shinkansen_Shinagawa_Station_South_gate.jpg|thumb|電算写植で印刷された写研の「ゴナ」と、DTPで印刷されたモリサワの「新ゴ」が混在している]]
モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。電算写植機への参入は遅かったものの、「ライノトロン」シリーズの最初の製品であるデジタルフォント式電算写植機「ライノトロン202E」は、発売から3年で100台を納品するヒット商品となった。
 
1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携するし、DTPに対応(Postscriptに対応)したイメージセッタ「ライノトロニック100」を発表同時期、アドビは日本のDTP業界に進出する機会をうかがっており、またモリサワ2代目社長の森澤嘉昭も「自社の看板商品である)ライノトロニックがMacで動く」という、後に「DTPの創始」とされる1985年に国際印刷機材展ドルッパ(drupa)で行われたデモンストレーションを目撃したことで、DTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携。1987年には新入社員の森澤彰彦(モリサワ創業家の跡取りで後に3代目社長)にDTPを身に着けさせるため、4か月間米アドビ社に派遣するなど、積極的にDTPを推進することになる<ref>[https://www.weeklybcn.com/journal/hitoarite/detail/20160926_32876.html モリサワ 代表取締役社長 森澤彰彦] - 週刊BCN+</ref>。モリサワは1989年にアドビよりポストスクリプト日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のポストスクリプト書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。
 
1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換え、モリサワは1998年には年商ベースで写研を抜いて業界トップとなった。特に、1970年代から1990年代にかけて非常に広範囲に使われた写研のフォント「ゴナ」とよく似たデジタルフォントが、モリサワの「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。
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なお、日本の電算写植の創始であるSAPTONシステムをほぼ独力で開発した写研の藤島雅宏(2014年に死去)は、「SAPCOL」によるコマンドベースの組版をDTPに拠らずに代替するものとして、晩年はXMLベースの[[XSL Formatting Objects]]の普及に携わっていた。
 
=== SAPTONその他の電算写植システム ===
日本の大手出版社や新聞社では、1970年代には独自に開発した「Computer Typesetting System」(CTS)と呼ばれるシステムが各社に構築されることとなる。
 
NELSONは、朝日新聞社とIBMが共同開発した電算写植システムである。1980年に稼働し、2005年まで使われた。
 
日経新聞社のANNECSも朝日新聞社のものと同時期にIBMが開発した。
 
凸版印刷は、1968年に電算写植システム「Computer Typesetting System」(CTS)を富士通と共同開発した。2006年に電算時代の編集組版ソフトウェアのコマンドをXMLベースで置き換え、Adobe Indesignのプラグインとして提供する「次世代CTS」となった。
 
== 電算写植の意義 ==