「トラファルガーの海戦」の版間の差分

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== 海戦までの流れ ==
=== 当時の英仏情勢 ===
[[ファイル:Strategic Situation of Europe 1805Strategic_Situation_of_Europe_1805.jpg|thumb|境界代替文=|右|フレームなし]]
1803年5月、[[アミアンの和約]]を破棄したイギリスは同時に[[フランス第一共和政|フランス]]へ宣戦し両国は交戦状態となった。英仏の戦いはまず海上の[[通商破壊戦]]から始まった。イギリス海軍の戦力はフランス海軍を大きく上回っていたので、[[大西洋]]と[[地中海]]の制海権はイギリス側に握られる事になった。フランス海軍は外洋へ出る度にイギリス海軍に攻撃されては母港へ逃げ返る事を余儀なくされたので、小船団だけでなく主力艦隊でさえもそれぞれの軍港から一歩も出られない事実上の封鎖状態に置かれていた。時の権力者ナポレオンは[[フランス第一共和政|フランス]]に忠実な同盟国となっていた[[スペイン王国]]の海軍に協力を求めて、この追加戦力に一縷の希望をつなげていた。
 
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=== フィニステレ岬の海戦 ===
[[ファイル:Battle of Cape Finisterre.jpg|thumb|境界|右|代替文=|フレームなし]]
1805年7月9日、ナポレオンからの命令書を受け取ったヴィルヌーブはカリブ海から出航し、大西洋を東へ横断して、7月22日にスペイン北西部にある[[フィニステレ岬]]の沖合いに到着した。この動きを掴んでいたイギリス海軍の[[ビスケー湾]]艦隊は、ここでヴィルヌーブ艦隊に攻撃を仕掛けた([[フィニステレ岬の海戦]])。ヴィルヌーブは敗走しスペイン北西部の[[フェロル]]軍港に艦隊を退避させた。ナポレオンがブレスト軍港への突入命令を繰り返したので、8月10日にヴィルヌーブはフェロル軍港を出たが、イギリス艦隊の圧力に押されて南に針路変更し、今度はカディス軍港へと退避した。
 
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=== フランス・スペイン海軍 ===
総旗艦は「ビューセントル」であり、ヴィルヌーブ中将が総指揮を取った。彼はスペイン艦隊の単独行動を防ぐ為に、あえて各団をフランス艦とスペイン艦の混成にしていた。元からの士気の低さと前日の突然の針路反転で艦列は乱れており、旗艦とは別の船が間に合わせの先導艦になっている状態だった。各団は部分的に混在していたが、概ねこの艦名記載順に並んでいた。
[[ファイル:Beau fait d'armes du capitaine Troude 3895.jpg|サムネイル|戦列艦フォルミダブル]]
'''第1団 '''<small>旗艦「フォルミダブル」</small>
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=== ネルソンタッチ(11:45~12:20) ===
[[ファイル:Trafalgar 1200hr.svg|代替文=|サムネイル|ネルソンタッチの図]]
午前11時45分、'''北縦隊'''(ネルソン中将)と'''南縦隊'''(コリングウッド中将)による二列縦隊を組ませたネルソンは、フランス・スペイン合同艦隊への突入命令を下し「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」の旗信号を送った。後に「ネルソンタッチ」と呼ばれるこの艦隊移動は、敵艦と接触するまでの間は相手からの一方的な砲撃に晒され、被弾した時は砲弾が船体上を縦断して大きな被害を出す危険な行動であった。ネルソンは敵艦隊をカディス軍港へ逃げ込ませない為に、あえてこの捨て身の体当たり戦法を用いる事にし、また分断した敵前衛が後方への回頭を終えるまでの間遊兵にする狙いもあったとされる。
 
12時00分、西側から急速接近して来るイギリス艦隊を視認したヴィルヌーブは、各団の旗艦に隊列を揃えさせて一筋の艦隊ラインを築くよう旗信号を掲げ、'''第1団'''(ル・プレ少将)、'''第2団'''(ヴィルヌーブ中将)、'''第3団'''(ド・メジーヌ少将)、'''第4団'''(グラヴィーナ大将)が北から南に向けてある程度整列した。しかし、第3団と第4団は混在状態のままで複数の艦が東西に重なっていた。
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16時00分、「英ネプチューン」と数時間に渡って交戦していた第2団副旗艦『西ヌエストラセニョーラデラサンティシマトリニダード』が降服した。大勢は決し、イギリス艦隊の勝利が確定した。ここからは残存艦艇の掃討戦となり、更に数隻のフランスないしスペイン戦列艦が拿捕された。フランス第2団の主要艦の一つ『仏ネプチューネ』は北東方面へ逃れる事が出来た。
 
16時30分、総旗艦「英ヴィクトリー」の甲板上で瀕死の状態にあったネルソンが「神に感謝する。私は義務を果たした。」の言葉と共に絶息した。なお、彼の最後は17時30分であったとする説もある
 
== 海戦の結果 ==
日が暮れかかった18時頃までに各艦艇の交戦状態は解かれ、イギリス艦隊の圧倒的勝利で戦いは終わった。フランス・スペイン合同艦隊は、18隻の戦列艦が捕獲され、1隻の戦列艦が弾薬引火による大爆発で水没していた。死傷者は6,000名を数え、総指揮官[[ピエール・ヴィルヌーヴ|ヴィルヌーヴ]]を始めとする7,000名が捕虜となった。激戦だったのでおよそ半数の捕獲艦が損傷の大きさから牽引時に難破して海上放棄された。イギリス艦隊の喪失艦は無く、戦死者は400名、負傷者は1,200名であった。しかし、総指揮官[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]を失った。
 
[[ファイル:Battle of Trafalgar Casualties.svg|left|サムネイル|220px|両軍の被害|代替文=|中央]]
 
ネルソン提督の亡骸を乗せたイギリス艦隊旗艦「英ヴィクトリー」は、応急修理を受ける為にイギリス領[[ジブラルタル港|ジブラルタル軍港]]に向かい、その後イギリス本土へ帰還した。他の損傷の激しい戦列艦も同様にジブラルタルに向かい、軽微で済んだ戦列艦はそのまま[[カディス]]近海で遊弋した。フリゲート艦は逃走した敵艦の追跡に向かった。
 
[[ファイル:Retour a Rota Mayer.jpg|境界|thumb代替文=|right中央|フレームなし|代替文=|中央]]
 
[[フェデリコ・グラビーナ|グラヴィーナ]]提督が率いるスペイン・フランス艦艇群は、夜陰に紛れた航の後に[[トラファルガー岬]]から20km先にあるスペイン領[[カディス|カディス軍港]]に帰着した。『仏ネプチューネ』『西ラヨ』その他もまたカディス軍港に避難していた。『仏フォルミダブル』以下フランス艦3隻は、当初の地中海に向かう南航から北へ針路を変えて[[ビスケー湾]]に入りフランス領[[ロシュフォール|ロシュフォール軍港]]を目指したが、その途の11月4日にイギリス艦隊に捕捉されて交戦の末に全艦拿捕された([[オルテガル岬の海戦]])。これを以ってトラファルガー海戦を中心にして行われた一連の[[トラファルガー戦役|海上戦役]]は終結した。
 
== 海戦後の影響 ==