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==概説==
奥州信夫郡の[[佐藤氏]]一族。'''信夫庄司'''と呼ばれていたが、[[飯坂温泉]]の湧く地であるため'''湯の庄司'''とも呼ばれた。奥州藤原氏2代当主[[藤原基衡]]の時代、[[康治]]元年([[1142年]])、[[陸奥国|陸奥]][[国司|守]][[藤原師綱]]が信夫郡の[[公田]][[検注]]を実施しようとした際に基衡の意を受けてこれを妨害し、のちに斬首された大庄司'''佐藤季春'''(季治)が父親に当たる可能性もあるが、各地の佐藤氏の家系図には見られない。『[[尊卑分脈]]』によれば[[従五位]]下左兵衛尉[[佐藤帥治]]の長男とする。佐藤一族の事跡に詳しい[[福島大学]]の客員教授[[菅野円蔵]]の著書『大鳥城記』によれば、基治の母は[[藤原公景]]の娘。妻は先に[[源頼朝]]の臣[[上野国]]の大窪太郎の娘を娶(めと)り、[[佐藤前信|前信]]および[[佐藤治清|治清]]の二子があった{{Sfn|菅野|1970|p={{要ページ番号|date=2019年1月}}}}。後[[藤原基衡|基衡]]の弟[[藤原清綱|清綱]](亘理権十郎)の娘で[[藤原秀衡|秀衡]]のいとこに当たる乙和子姫を迎え奥州藤原氏と強固な関係を結んだ。さらに乙和子姫には、継信・忠信・藤の江・浪の江などの子があったが、その藤の江を秀衡の三男[[藤原忠衡|忠衡]]に娶わせ岳父として同盟関係を築いた。
 
歴史学者の[[角田文衛]]によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘であったのではないかとする説を唱えている<!--出典はノート参照-->。{{要出典|範囲=飯坂の佐藤氏系図のひとつに基治女・浪の戸(源義経側室)とある|date=2017年4月}}。
 
==戦歴==
文治5年([[1189年]])8月、源頼朝が[[奥州合戦|奥州討伐]]のため奥大道(奥州街道)を北上してきた際、一族の伊賀良目七郎らと[[石那坂の戦い|石那坂]](現在の福島市平石、もしくは飯坂)に陣をはり防衛した。『[[吾妻鏡]]』文治5年8月8日条によると、この合戦で基治は鎌倉方の[[常陸入道念西]]子息である[[伊佐為宗]]らと戦って敗れ、晒(さら)し首にされたとあるが、同年10月2日条によると、赦免されて本領に戻ったとされる。{{要出典範囲|date=2019-1|また、青森県[[石名坂館]]には、奥州藤原氏の家臣佐藤基治なる人物が、主家の滅亡に伴い、逃れてきたという伝承が残っている。}}
 
福島県[[白河市]]表郷中野庄司戻には、基治に由来する「庄司戻しの桜」がある。伝承によると、義経に従い鎌倉に赴く二人の子どもを見送り、別れる際に「二人の子どもがその忠節を全うするなら根付け。そうでなければ枯れよ」といって地面に杖を挿したが、立派に成長し見事な桜が咲いたという(現在は案内板のみ残る)。
 
==死亡時期と行年==
石那坂で戦死したとする資料が多いが、『[[信達一統誌]]{{Full citation needed|date=2019-1|}}では生け捕りの後赦免され、後「大鳥城」で卒去したとあり、『[[大木戸合戦記]]』にも捕虜となり、宇都宮の本陣に送られたとある。
 
また、青森県[[石名坂館]]には奥州藤原氏滅亡の際に、佐藤基治が逃れてきたという伝承が残っている。
 
江戸期の書籍では
*[[佐久間洞厳]]『[[観述聞老志]]』- 文治5年8月4日:77歳。
*[[佐藤信要]][[封内名蹟志]]』 - 文治5年8月4日:75歳。
とあるが研究者によりまちまちで、生没年は確定されていない。
 
==脚注==
== 外部リンク ==
{{脚注ヘルプ}}
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sato_sin.html 武家家伝_信夫佐藤氏]
<!--===注釈===-->
{{Notelist}}
<!--===出典===-->
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|editor1-last=菅野|editor1-first=円蔵|date=1970|title=大鳥城記|publisher=飯坂町史跡保存会|ncid=BN07863066|ref=harv}}
 
<!--== 外部リンク ==-->
<!--*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sato_sin.html 武家家伝_信夫佐藤氏]--><!-- 掲載すべきでない外部リンク([[WP:ELNO]])であると考えられます -->
 
{{DEFAULTSORT:さとう もとはる}}