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文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方諸大名は三成を憎むようになったとする。
しかし三成を事件の首謀者とする説は[[寛永]]3年([[1626年]])に執筆されて成立した歴史観となった「甫庵太閤記」と言う本の記述に登場して以降<ref>{{Cite book|和書|author=阿部一彦
====「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立====
「太閤様御置目」(秀吉の遺言<ref>豊臣秀吉遺言覚書
家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。
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一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に[[織田有楽斎]](長益)・[[京極高次]]・[[伊達政宗]]・[[池田照政]]・[[福島正則]]・[[細川幽斎]]・[[細川忠興]]・[[黒田孝高|黒田如水]]・[[黒田長政]]・[[藤堂高虎]]・[[加藤清正]]・[[加藤嘉明]]ら30名近い諸大名が参集したとしている<ref>国史研究会編『関原軍記大成(一)』国史研究会1916年、p.60</ref>。
翌年の閏3月に[[前田利家]]が死去すると、五奉行の一人石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・[[蜂須賀家政]]・[[浅野幸長]]
家康・毛利輝元・上杉景勝・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己
=== 加賀前田征伐と家康の権力強化 ===
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[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ[[武蔵国]]府中に蟄居し、治長は[[下総国|下総]][[結城市|結城]]、雄久は[[常陸国|常陸]][[水戸市|水戸]]に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「[[加賀征伐]]」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀[[小松城]]主である[[丹羽長重]]に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である[[横山長知]]を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、利長の母で利家正室であった[[芳春院]]を人質として江戸に派遣することで落着した。
この騒動のさなか、家康は北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、その後も在城を続ける。秀吉の遺言<ref>豊臣秀吉遺言覚書
政敵を排除し政権中枢の大坂城に入った家康の権力は大きく上昇し{{sfn|谷 2014}}、城中から矢継ぎ早に大名への加増や転封を実施した。これは味方を増やすための多数派工作と考えられている。細川忠興に[[豊後国|豊後]][[杵築藩|杵築]]6万石、[[堀尾吉晴]]に[[越前国|越前]]府中5万石、[[森忠政]]に[[信濃国|信濃]][[川中島]]13万7,000石、[[宗義智]]に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして[[福原長堯]]らを減封処分とし、[[田丸直昌]]を[[美濃国|美濃]][[岩村藩|岩村]]へ転封した。本来大名への加増転封は大老奉行の合議・合意のもと行われるものであるが、家康はこれを単独の決定によって進めている{{sfn|谷 2014}}。
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6月16日に大坂を発った家康は同日に伏見に入城{{Sfn|白峰 2016(2)}}。伏見城内における家康の言動について、『慶長年中卜斎記』には「17日に千畳敷の[[奥座敷]]へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」と記されている{{sfn|史籍集覧26|p=45}}。
上杉景勝は上杉領へ侵攻する討伐軍を[[常陸国|常陸]]の佐竹義宣と連携して白河口で挟撃する「白河決戦」を計画していたとされる<ref name="field">{{Cite book|和書|author = [[藤井尚夫]] |year = 1998 |title = フィールドワーク関ヶ原合戦 |publisher = 朝日新聞社 }}</ref>。しかし本間宏は決戦の為に築かれたとされる防塁の現存遺構が、慶長5年当時の造営物であるか疑問であること、発給文書等の一次史料と「白河決戦」論の根拠である『会津陣物語』([[延宝]]8年成立)『東国太平記』([[延宝]]8年成立か)等の二次史料の記述が矛盾している点などから「白河決戦」計画の実存を否定している<ref>{{Cite journal|和書|author=本間宏
なお、上杉家の挙兵は、家康が東国に向かう隙に畿内で石田三成が決起し、家康を東西から挟み撃ちにするという、上杉家家老・[[直江兼続]]と三成との間で事前より練られていた計画に基づくものとする説がある。ただしこれは江戸時代成立の軍記物・逸話集などに登場する説であり、直接の裏づけとなる一次史料は無い。宮本義己は慶長3年7月晦日付[[真田昌幸]]宛石田三成書状の内容から西軍決起後の七月晦日の段階においても、両者の交信経路は確立されておらず、よって挟撃計画は無かったとする<ref>
== 諸将の去就 ==
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7月5日、宇喜多秀家が豊国神社に参詣<ref>[[#時慶2|時慶記]]慶長5年7月5日条</ref>。
一方、上方に残っていた[[前田玄以]]・[[増田長盛]]・[[長束正家]]の豊臣三奉行は'''7月12日'''広島にいた[[毛利輝元]]宛に「大坂御仕置之儀」の為の大坂入りを要請する書状を出し<ref>7月12日付毛利輝元宛豊臣三奉行連署書状
また[[宍戸元次]]ら輝元の家臣は'''7月13日'''付けの書状で[[榊原康政]]・[[本多正信]]・永井直勝に安国寺恵瓊が輝元の命令として東進していた軍勢を近江から大坂に戻していることを報告し<ref>7月13日付榊原康政・本多正信・永井直勝宛益田元祥・熊谷元直・宍戸元次連署書状([[#吉家文2|吉川家文書2]] 、p.
上坂要請を受けた輝元は'''7月15日'''に広島を出発し、同日加藤清正に秀頼への忠節ための上洛を促す書状を送る<ref>7月15日付加藤清正宛毛利輝元書状
'''7月17日'''豊臣三奉行は秀吉死後、家康が犯した違背の数々を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付。また輝元と秀家も前田利長に家康の非をならした書状を送る<ref>7月17日付前田利長宛毛利輝元・宇喜多秀家連署書状
'''7月18日'''三成が[[豊国神社]]に参詣<ref>[[#時慶記2|時慶記]]7月18日条</ref>。'''7月19日'''には輝元が大坂城に入城し<ref>[[#義演2|義演准后日記]]7月19日条</ref>、丹後方面に向けて西軍勢が出陣<ref>[[#時慶記2|時慶記]]7月19日条</ref>する一方、家康家臣[[鳥居元忠]]らが留守を勤めていた伏見城に対する西軍の攻撃が開始され、22日に[[宇喜多秀家]]勢<ref>[[#言経10|言経卿記]]7月22日条</ref>、23日には[[小早川秀秋]]勢が攻め手に加わる<ref>[[#義演2|義演准后日記]]7月23日条</ref>('''[[伏見城の戦い]]''')。なお、当初島津義弘と小早川秀秋は家康に味方するため城側に入城の意思を示したが拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わったとする説がある。しかし前者は「島津家譜」<ref>{{Citation|和書|editor=近藤瓶城
*西軍結成に関する諸説については「[[#西軍の首謀者と結成の過程]]」参照。
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===二次史料による合戦当日の記録===
関ヶ原の戦いに関する軍記・家譜・覚書類は非常に数が多いため、それらにおける合戦当日の記録すべてをここで記述・比較することは不可能である。そこで、まず『内府公軍記』における9月15日の記事を要約して記し、比較材料として明暦2年(1656年)成立の『関原始末記』<ref>{{Citation|和書|editor=近藤瓶城
『内府公軍記』の著者は『信長公記』の著者として知られる太田牛一。合戦の翌年慶長6年には原本が成立しており関ヶ原関連の二次史料群の中で最初期の書物といえる。複数の自筆本・写本が現存するが、ここでは初期の原本を模写したものと考えられる杤山家所蔵本を底本とする<ref>{{Cite journal|和書|author=大澤泉
'''『内府公軍記』'''
家康が赤坂に着陣すると大垣城の石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の各隊は山中まで引き、翌朝には垂井の南にある岡が鼻山に毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊・長束正家ら計2万が弓鉄砲を前衛に陣を構える。家康はこの方面に池田輝政・浅野幸長を送り込み、自らは旗本衆を率いて野上と関ヶ原の間に陣を張った。
15日朝は霧と降雨によって視界不良であったが、巳の刻(午前10時ごろ)には晴天となり視界も開け、物見の部隊が戦闘を開始する。石田・小西・島津・鍋島
西軍は中筋を通って突入してきた本多忠勝隊の攻勢に堪えきれず、追い討ちによる多数の死者を出しながら玉藤川(藤川)を下って伊吹方面に敗走を始め、南宮山の西軍各隊も敗走。家康は首実検を行い、兵士に休息を与えると、その日のうちに佐和山城を包囲した。
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| style="text-align:right;" | 5.0
| style="text-align:right;" | 1,500
| [[中村一栄]]<ref group="注釈">
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| style="text-align:right;" | 4,350
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前田利長は上杉攻めを支援すべく、7月26日に金沢を出発。8月に入り[[山口宗永]]が篭る[[大聖寺城]]を包囲、3日で落城させると[[青木一矩]]の北ノ庄城を囲んだ。しかし、「大谷吉継の大軍が後詰でやってくる」という虚報(吉継自身が流したと言われている)に引っかかり、急いで金沢に引き返そうとした。
利長は途中軍勢を二手に分け、丹羽長重が篭る小松城に別働隊を送り込んだ。8月9日、別働隊に長重の篭城軍が攻撃して、別働隊を破った長重はさらに利長の本隊も襲い、損害を与えた([[浅井畷の戦い]])。こう着状態になったあと長重は和睦、小松城を明け渡した。金沢に戻った利長は軍を建て直し、9月12日に再度金沢を出発したが、結局関ヶ原には到着できなかった。この時、大聖寺城攻撃には参加していた弟の前田利政は、居城である[[七尾城]]に篭ったまま動かず、東軍には加わらなかった。利政はかねてより西軍への参加を主張していたとも、西軍の人質となっていた妻子が救出されるまで動くべきではないと考えていたとも言われ、結果的に領地没収となった<ref>{{Cite journal|和書|author=見瀬和雄
=== 畿内近国 ===
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また豊臣氏の[[蔵入地]]が廃止され、それぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から[[摂津国|摂津]]・[[河内国|河内]]・[[和泉国|和泉]]65万石余りに事実上減封となった。一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、[[京都]]・[[堺市#歴史|堺]]・[[長崎市#歴史|長崎]]を始めとする大都市や[[佐渡金山]]・[[石見銀山]]・[[生野銀山]]といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地とした。また豊臣恩顧の大名が家康の論功行賞によって加増された事は、彼らが豊臣家の直臣から切り離され、独立した大名家となった事を意味した。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転する。
ただしかつては、この一連の論功行賞で豊臣家が一大名の地位に陥落したとする学説が一般的であったが、[[豊臣家]]がなお特別の地位を保持して、徳川の支配下には編入されていなかったとする説<ref>
[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の3名及び伊勢で捕らえられた原長頼<ref group="注釈">旧暦10月18日に自刃したとする説もある。</ref> は京都[[六条河原]]において斬首された。首は[[三条大橋]]に晒されている。[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]には長束正家と弟の[[長束直吉|直吉]]が自刃し、やはり三条大橋に首を晒された。[[福知山城]]を開城した小野木重勝は、直政や景友の助言によって、一旦は出家ということで助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し、重勝は10月18日に丹波福知山[[浄土寺]]で自刃した。一説には父の面前で自刃させたとも伝えられている。この他[[赤松則英]]、[[垣屋恒総]]、[[石川頼明]]、[[斎村政広]]などがこの10月に自刃を命じられている。家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については、両名とも東軍に内通していたが、長盛は死一等を減じられ武蔵岩槻に配流。玄以は所領の丹波亀山を安堵されるという、両極端な処分が下された。一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は、家康から捕縛を厳命されていたが、薩摩へ逃亡を果たした。
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毛利氏安泰のための内応が水泡に帰した吉川広家は進退窮まる形になった。謀反人の宿老であるにも関わらず「律儀さ」ゆえに彼のみは破格の扱いを受けるという形になった以上、今更「輝元の西軍への関与は知っていたが、自分の努力でなるべく動かないようにさせたので免責してほしい」などと前言を翻し実情を述べて交渉することもできなくなった。そのため、自分自身に加増予定の周防・長門(現在の山口県)を輝元に与えるよう嘆願し、本家の毛利家を見捨てるくらいなら自分も同罪にしてほしい、輝元が今後少しでも不届きな心をもてば自分が輝元の首を取って差し出す、という起請文まで提出した。家康としても、九州・四国情勢などの不確定要素がある以上は毛利を完全に追い詰めることは得策ではないため、吉川広家の嘆願を受け入れ、先の毛利氏本家改易決定を撤回し周防・長門29万8千石{{Efn|慶長10年([[1605年]])毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。}}(現在の山口県)への減封とする決定を[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]に下した。さらに本拠地を毛利氏が申請した[[周防国|周防]][[山口城|山口]]ではなく、[[長門国|長門]][[萩市|萩]]にするよう命じた。輝元は出家し、家督を嫡男である[[毛利秀就]]に譲り隠居する。
毛利領が、安芸ほか山陽・山陰8か国(112万石<ref>「毛利家文書」「全国石高及び大名知行高帳」など</ref>)から防長2か国(29万8千石、のち高直しにより36万9千石{{Efn|慶長15年([[1610年]])に領内検地の後、幕閣とも協議し高直し}})まで一気に減らされたことから、[[吉川氏]]に対し毛利本家は、残された毛利領より3万石([[岩国藩|岩国領]]、後に高直しして6万石)を割き与えたものの諸侯待遇の推挙を幕府に行わない仕打ちを行った{{Efn|ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた[[長府毛利家]]や[[徳山毛利家]]とは同列には出来ないとする見解もある<ref>{{Citation|和書|author=脇正典
なお、家康は輝元と義兄弟の契りを慶長4年([[1599年]])に交わしていたが、それを西軍決起によって輝元に反故にされている。
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=== 影響 ===
戦役に関する論功行賞は形式上反秀頼勢力の討伐に対する褒賞として行われたものであるが、実態は親徳川勢力への豊臣直轄地の割譲であり、戦役前222万石
また、かつて秀吉が主導していた諸大名への武家官位叙任は戦役後家康が取り仕切るようになり、その一方秀頼推挙による叙任は秀頼の直臣クラスの者にしか行われなくなる<ref>{{Cite journal|和書|author=下村効
==首塚==
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西軍の結成については、石田三成がまず決起し、続いて決起に反対の立場であった大谷吉継を引き入れるとともに、安国寺恵瓊と共同で毛利輝元と豊臣三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)を説得して、反家康闘争に踏み切らせた説明されることが多い。また、豊臣三奉行は当初三成と吉継の決起を反豊臣の謀反と捉え、その鎮圧のため輝元を大坂に呼び寄せる一方、家康にも協力を依頼したが、三成の説得により方針を180度転換したとする説もある<ref>[[#kasaya2007|笠谷 2007]]、p.33-36</ref>。しかし慶長5年7月17日の西軍決起に至るまでの三成の動向と西軍首脳部との交渉過程そのものについては、一次史料によって詳細が明らかにされているわけではい。
三成の単独決起説も江戸時代成立の軍記物・逸話集などの二次史料の記述が主な根拠であり、さらにそれぞれの内容にも食い違いが見られるなど検討の余地が残されている<ref>[[#布谷2005|布谷 2005]]</ref>。水野伍貴は政権中枢から外され、協力者もいない三成に、反家康闘争に消極的な毛利輝元・宇喜多秀家の両大老が同調する構図は不自然であり、むしろ両大老に積極性があったとする。そして挙兵計画は会津征伐が回避不能になった頃から水面下で進められていたと推測する{{sfn|水野 2016|p=86-89}}。布谷陽子は慶長5年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に輝元・秀家・三奉行・小西行長・吉継・三成が会津征伐にあたって談合したことが記されていることから、三成を含めた複数人の合議のもと西軍の形成が事前に進行していたとする<ref>[[#布谷2005|布谷 2005]]</ref>。谷徹也は布谷説を肯定しつつ、増田長盛が永井直勝書状を送った7月12日の直前、恐らくは家康が江戸城に到着した第一報が大坂方面に届いたとされる7月2日頃から三成の挙兵に向けた具体的な行動が開始されたと捉え、第一の目的は家康を江戸城に釘付けにするものであったと推測している<ref>{{Citation|和書|author=谷徹也
毛利輝元は三成と恵瓊の説得に引きずり込まれる形で西軍の総大将になったため、大坂城に留まって積極的な行動を採らなかったとされる。しかし、対家康戦への消極的な姿勢とは対照的に、豊臣三奉行よりの要請を受け取った後の大坂入りは極めて迅速なものであり、毛利軍も四国・九州において活発な軍事行動を展開している。これらの点から光成準治は西国における勢力拡大を目的として奉行衆と事前に協議したうえで決起に加わったとし、三成や恵瓊の甘言に乗せられたとする説を否定している{{sfn|光成 2007}}。
吉継の参加も消極的なものであったかどうか、その意図を含めて見解が分かれる。吉継が三成との友情を捨てられず、負け戦を覚悟のうえで西軍に加わったとする説は江戸時代成立の二次史料の記述をもとにしており、その真偽については不明である。石畑匡基は[[宇喜多騒動]]における家康の裁定を豊臣政権の弱体化策と捉え、それ以降家康に抱いていた不満から西軍に参加したする<ref>{{Cite journal|和書|author=石畑匡基
===小山評定をめぐる諸説===
「小山評定」とは慶長5年7月25日下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことを指す。その場では福島正則が進んで家康の味方を表明し、山内一豊が徳川軍への居城明け渡しを申し出たことなどによって諸大名は家康のもとに団結し、会津征伐中断と上洛が決定したとされてきた。これまで関ヶ原の戦役におけるターニングポイントの一つと扱われてきた「小山評定」であるが、軍議における家康や諸大名の言動は「慶長記」・「関原始末記」等寛永・慶安期以降に作成された二次史料に記されているものであり、一次史料からは確認されない<ref>{{Cite journal|和書|author=白峰旬|title=「小山評定」の誕生 : 江戸時代の編纂史料における小山評定の記載内容に関する検討|journal=別府大学大学院紀要|issue=16号|year=2014}}</ref>。
白峰旬は<ref>{{Cite journal|和書|author=白峰旬|title=フィクションとしての小山評定 : 家康神話創出の一事例|journal=別府大学大学院紀要|issue=14号|year=2012}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=白峰旬|title=小山評定は歴史的事実なのか(その1)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して|journal=別府大学紀要|issue=55号|year=2014}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=白峰旬|title=小山評定は歴史的事実なのか(その2)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して|journal=別府大学大学院紀要|issue=16号|year=2014}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=白峰旬|title=小山評定は歴史的事実なのか(その3)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して|journal=史学論叢|issue=44号|year=2014}}</ref><ref>{{Citation|和書|author=白峰旬|chapter=小山評定は本当にあったのか?|editor=渡邊大門|title=家康伝説の嘘|journal=柏書房|year=2015}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=白峰旬|title=「いわゆる小山評定についての諸問題 : 本多隆成氏の御批判を受けての所見、及び、家康宇都宮在陣説の提示|journal=別府大学大学院紀要|issue=19号|year=2017}}</ref>7月25日より前の7月19日の時点ですでに福島正則に上洛命令が出されていること。また家康が諸大名に小山召集を命じた書状や、家康や諸大名が作成した書状の中に小山での評定に言及したものが無い点などから、評定そのものがフィクションであるとする。そして8月12日付伊達政宗宛家康書状に福島正則・田中吉政・池田輝政・細川忠興から再三「上方仕置」を優先するよう要請があったため家康は江戸に帰陣したと記されている点から、会津征伐中断と上洛はそれらの進言を考慮したうえで家康が決定したものであり、一度の評定によって決定したものでは無いとする。
また肯定派が「小山評定」実施の証拠とする慶長5年7月29日付大関資増宛浅野幸長書状についても7月25日前後の浅野幸長の動向についての情報を提供するものの、「小山評定」の実施については直接の記述が無い点等から通説の「小山評定」を肯定する史料たり得ないとする。
さらに白峰説では家康は、豊臣三奉行の「別心」を黒田長政らに伝えた7月29日以前の7月24日には、すでに7月17日に三奉行が出した「内府ちがひの条々」を手入れていたが、諸大名の離反を恐れてその事実を隠し、7月27日時点でも三奉行や淀君が味方であるかのように装っていたとする。
これら白峰説に対して本多隆成は<ref>{{Cite journal|和書|author=本多隆成
笠谷和比古は7月25日の時点では「内府ちがひの条々」は家康や東軍諸大名の許には届いておらず、未だ三成と吉継の謀反という現状認識しかない諸大名が家康に従うのは当然であったとし、むしろ一豊による居城明け渡しの献策が三奉行加担判明後の東軍分裂を防いだと評価する<ref>[[#kasaya2007|笠谷 2007]]、p44-47</ref>。また東海道の諸大名の居城明け渡しと徳川譜代武将の入城という大規模な行動を評議なく行うことは不可能とする<ref>{{Citation|和書|editor=笠谷和比古
▲笠谷和比古は7月25日の時点では「内府ちがひの条々」は家康や東軍諸大名の許には届いておらず、未だ三成と吉継の謀反という現状認識しかない諸大名が家康に従うのは当然であったとし、むしろ一豊による居城明け渡しの献策が三奉行加担判明後の東軍分裂を防いだと評価する<ref>[[#kasaya2007|笠谷 2007]]、p44-47</ref>。また東海道の諸大名の居城明け渡しと徳川譜代武将の入城という大規模な行動を評議なく行うことは不可能とする<ref>笠谷和比古編『徳川家康 ─その政治と文化・芸能─』(宮帯出版社2016年)p.53-54</ref>。水野伍貴は、上方からの情報によって、家康は7月23日頃に毛利輝元の西軍関与を確信しており、その事態に対処するため東軍諸大名と合議する必要があったとする。そして[[宮部長煕]]が寛永10年(1633年)に記した身上書にある、小山評定に関する記述などを根拠に虚構説を否定している(一方、水野は白峰説について、定着には至っていないものの、歴史的事実とされてきた小山評定に、検証が加えられる転機になったとも評している)<ref>水野伍貴「小山評定の歴史的意義」(『地方史研究』67(2)号、2017年)</ref>。ただしこれら評定肯定説は主に当時の政治的状況や経緯から、実施の妥当性を主張するものであって「小山評定」を一次史料によって直接立証したものではなく、また二次史料に記された「小山評定」の内容を無条件に肯定するものでもない。
===島津義弘の夜襲策について===
島津義弘の夜襲策の逸話については[[徳川家康]]の年代記として[[享保]]12年([[1727年]])に成立した『[[落穂集]]』に載せられたものが詳しい。それによると本戦前日の9月14日の夜、島津豊久は島津義弘の発案した家康本陣への夜襲作戦を三成に提案。三成がこれに困惑していると、島左近が古来より夜襲で少勢が大軍に仕掛けて勝利した例が無い。明日の一戦での勝利は疑い無く、久しぶりに家康が敗走する姿が見られるであろうと反対し、三成もそれに従った。豊久は左近の口出しに不快を覚えつつも、左近が家康の敗走を見たのはいつのことかと尋ねると、左近は武田家臣山県昌景の配下として出陣した時に掛川城の近くで敗走する家康を追いかけたことがあると答えた。豊久はそれは下劣なたとえで杓子定規な物言いである。その頃の家康と今の家康を同じ人物と考えるのは間違いであろうと言い、苦笑いをして三成の陣を去ったという。『落穂集』の作者である[[大道寺友山]]は島津帯刀に会った際、この件について訪ねたところ、詳しい事はわからないが伝え聞くところでは義弘と豊久が夜討ちをかけるつもりであった、という返答を書き記している。
桐野作人はこの逸話について、数万の家康本陣への夜襲という非現実な作戦を義弘が発案したとは考えがたく、また左近が山県昌景の家臣であったとする経歴も不審であり、さらに島津家側の史料に夜襲に関するものがほとんどない点から史実では無いとする。そして本戦当日、島津勢が傍観を決め込んだ理由が、作戦を却下されたことに恥辱を感じた義弘・豊久の三成への悪感情にあったとする説を否定している<ref>{{Cite book|和書|author=桐野作人
なお『黒田家譜』では豊久と左近は登場せず義弘の提案を三成が却下している。
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吉川広家は、西軍に属しながら家康に通じ、関ヶ原本戦で東軍との戦闘を回避した事が評価され、戦後中国地方において1カ国もしくは2カ国を与えられることとなったが、それを辞退するかわりに本家毛利家の存続を願い出たため、毛利家は取り潰しを免れたとされる。しかしこの説の根拠となる書状群<ref>10月2日吉川広家宛黒田長政起請文、10月3日黒田長政宛吉川広家書状、10月3日黒田長政・福島正則宛吉川広家起請文</ref>は原本が存在せず、またそれらを掲載する岩国藩(藩祖が広家)編纂の「吉川家譜」はその典拠を明らかにしていない<ref>[[#山本2012|山本 2012]]</ref>。
江戸時代岩国藩は吉川家の家格を上昇させるため様々な宣伝活動を行ったが、その一環として藩外で作成された軍記物に対する、記事の内容改変や吉川家関連書状の掲載を推し進める工作を行っている<ref> {{Cite journal|和書|author=山本洋
=== 福島正則と井伊直政の先陣争い ===
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一方『関ヶ原軍記大成』では福島隊の陣中ではなく、陣の前を約300名の忠吉・直政隊が通ろうとしたと記しており、先に進んだ時の兵数も約40騎ないし50騎と、話の細部が異なっている。
笠谷和比古は、戦闘の前に定められた軍法で抜け駆けは厳禁されており、また戦闘後に正則が抗議を行った記録も無いことから、実際の直政の行動は正則に配慮して抑制されたものであったとする。また物見のため戦闘当日に発生した霧に紛れて前進したところ、たまたま敵に遭遇したというかたちを作ることで、徳川武将に一番槍の実績を残そうとしたと推測する<ref>{{Cite book|和書|author=笠谷和比古
ただし『黒田家譜』を含め戦闘開始時点では霧が晴れていたとする書物は複数存在する。また抜け駆けの逸話自体江戸時代成立の二次史料を出典とするものである。
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===秀秋裏切りの理由===
秀秋の裏切りの理由は、秀秋自身が真相を語ることなく合戦から二年後にこの世を去ってしまったため明確ではない。諸説のうちの一つとして、幼少の秀秋の親代わりを努めていた秀吉正室北政所が東軍支持であった一方、北政所と対立していた秀吉側室淀君が西軍支持であったため、最終的には東軍に寝返ったとするものがある。しかし当時の北政所の動向は必ずしも東軍支持といえないものであり、また淀君との対立も確証のある説ではない<ref>{{Cite journal|和書|author=跡部信
== 関ヶ原の戦いの屏風絵 ==
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