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*慶応2年から3年にかけて、京都の藩邸で薩摩藩の兵学師範であった[[上田藩]]士の[[赤松小三郎]]より英国式兵学を叩き込まれる。赤松は帰郷する直前の慶応3年9月3日に中村半次郎([[桐野利秋]])らによって暗殺されたが、野津は恩師を暗殺された無念さから仇討を企図した。[[有馬藤太]]はその回顧録(『維新史の片鱗』)で「野津などは仇討を企てたものだが、トートー分からずに仕舞に成った」と述べているが、おそらく野津は分かっていたのであろう。西南戦争の折、苦渋の中でもなお桐野や西郷と戦ったのには、このときの無念さが背景にあるのかも知れない。
* [[戊辰戦争]]の[[宇都宮城]]戦で[[大鳥圭介]]率いる幕府軍と対峙した野津は、会戦まもなく戦わずして兵を下げた。そのことを他の薩摩藩士に誹られると「自分は大鳥の訳本で西洋兵学を学んだ。間接的とはいえ彼は師であるので恩に報いるため兵を引いたのだ」と説明した。
* [[薩英戦争]]において[[大山巌]]らと共に英国艦船に突入しようとしたほど勇猛で知られていた野津だが、日本の内戦である戊辰戦争には内心乗り気でなかったらしく「'''うつ人もうたるる人もあはれなり  ともに御国の人と思へば'''」と詠い、この戦いを嘆いた。しかし皮肉なことに、この時の野津の活躍ぶりが高く評価されたため、この後、薩摩人の野津にとってはさらに辛い西南戦争で否応なく官軍主力を預かることになる。
* [[二本松の戦い]]にて大壇口進軍の際、番所前の茶屋にて待ち構えていた六番隊大砲方の[[山岡栄治]]、[[青山助之丞]]2名の襲撃を受け、部下9名を斃された。明治31年、同地を訪れた野津は2名を称賛し、明治33年には二勇士戦死之碑を建立している<ref>星亮一『二本松少年隊のすべて』 新人物往来社2009年 ISBN 978-4-404-03568-4、p225、241</ref>。
* [[西南戦争]]では兄・鎮雄とともに、[[田原坂]]の戦いなどで大きな戦功を挙げ、後の地位を確たるものにした。しかし、野津はかつての師・[[西郷隆盛]]や同郷同輩と戦い、自らの部下も多く失ったこの戦いがよほど心痛だったらしく「田原坂では刀帯で弾が止まって命拾いした」などと断片を述べる程度でほとんど沈黙してしまった。一方でひそかに戦死した部下の名前を連ねて掛け軸にし、居室に掲げて毎日弔っていたという。
* 野津は[[日清戦争]]に当初第5師団長として従軍し、[[山縣有朋]]が病で退いた後は第1軍司令官に就いた(第2軍司令官は大山巌、野津の後任師団長は[[奥保鞏]])。野津は奇襲の名手としてこの戦役最大の戦功を挙げ、もともと野津を気に入っていた[[明治天皇]]などは「朕深ク之ヲ嘉賞ス」など異例の三度の勅語をもって賞賛した。
* [[日露戦争]]開戦となり、満洲軍総司令官として当初は[[大本営]]を統括するはずだった大山が就任するにあたり、山縣が「出先(満洲)は野津に任せればよいのに」といったところ、大山は「そりゃあ戦なら七次どんのほうがいいでしょう」と答えた。大本営首脳部では野津・奥・黒木・乃木の軍司令官の中では野津を筆頭格とみていたようである。
* 野津と[[黒木為もと|黒木為楨]]はともに[[鳥羽・伏見の戦い]]以来の古参であり、お互いを意識し合うライバル関係にあるといわれ、大山もそのことを気遣って自らが満洲軍総司令官の任に就いたのであるが、黒木第1軍が日本陸軍の先鋒として[[鴨緑江]]に進軍することが決定した際、野津は自ら黒木軍の司令部を訪れた。黒木は外出して不在であったが野津は「黒木に渡してくれ」と、日清戦争時に自分が使っていた鴨緑江周辺の地図を黒木軍参謀長の[[藤井茂太]]に渡した。
* 歴戦の猛将であるだけでなく大の頑固者として名のとどろいていた野津の参謀長については、並大抵の人物の意見具申では聞き入れられまいと人選が難航した。そこで[[上原勇作]]ならば、知略、格(当時少将)ともに申し分なく、なにより野津の娘婿だから大丈夫だろうということで人事が決定した。しかし、名参謀の上原を以てしても野津を抑えきるのは容易ではなく、[[川村景明]]中将(当時)を激怒させて野津の身代わりに上原が2回叱責されている。