「井伏鱒二」の版間の差分

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</ref>た事が、後に彼の有名な[[于武陵]]「勧酒」の訳出「サヨナラダケガ人生ダ」を生み出す端緒となる。<ref>[http://0845.boo.jp/times/archives/10535 続・井伏鱒二と「因島」余録【2】昭和六年 土井家弔問から | せとうちタイムズ]</ref><ref>[[さだまさし]]『絶対温度』</ref>
 
[[1938年]] 「ジョン萬次郎漂流記」で第6回[[直木賞]]受賞、『[[文学界]]』誌の同人となる。戦時中は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に徴用され、開戦を知ったのは[[南シナ海]]上を航行する輸送船の中だった。その後日本軍が占領した[[シンガポール|昭南]]に駐在、現地で日本語新聞([[昭南新聞]])の編集に携わった。この経験がその後の作品に大きな影響を与えている。
昭和初年から山梨県を頻繁に訪問した。山梨では多くの地元文人と交流し、趣味の川釣りなどを行っている。山梨を舞台にした作品も多い。
 
昭和初年から山梨県を頻繁に訪問した。山梨では多くの地元文人と交流し、趣味の川釣りなどを行っている。山梨を舞台にした作品も多い。[[1939年]] [[太宰治]]と[[甲府市]]水門町(甲府市朝日)に居住する[[地質学者]]・[[石原初太郎]]の娘である[[津島美知子|美知子]]との結婚を仲介している。
 
[[1941年]] [[大日本帝国陸軍|陸軍]]に徴用され、開戦を知ったのは[[南シナ海]]上を航行する輸送船の中だった。その後日本軍が占領した[[シンガポール]](昭南)に駐在、現地で日本語新聞([[昭南新聞]])の編集に携わった。この経験がその後の作品に大きな影響を与えている。
 
[[1944年]] 7月には甲府市甲運村(甲府市和戸町)の岩月家に[[疎開]]する。岩月家は双英書房の創業者である岩月英男の実家で、岩月は井伏門下で、太宰治の著作などを刊行している。井伏は翌年1945年7月6日-7日の[[甲府空襲]]では被災している<ref>なお、太宰治は昭和14年9月に東京三鷹に転居していたが、戦時中には甲府の石原家に疎開しており、甲府空襲で被災している。</ref>。井伏はその後、広島県福山の生家に再疎開しているが、戦後も山梨県訪問は頻繁に行っており、俳人の[[飯田龍太]]らと交流した。
 
戦後一時期、[[新日本文学会]]に加入していたが、ほどなく退会した。
 
[[1965年]] 『[[新潮]]』誌に、「[[黒い雨 (小説)|黒い雨]]」(連載当初は「姪の結婚」)を連載。この作品で[[1966年]](昭和41年)、[[野間文芸賞]]を受賞。同年に[[文化勲章]]受章。