「ダーフィト・ブラウンス」の版間の差分

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日本滞在中、講義の傍ら各地を地質調査して回り、論文を執筆する。[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[王子 (東京都北区)|王子]]の[[石神井川]]河岸で貝化石を採集、化石包含層を王子貝層と名づけた。[[音無さくら緑地]]にはブラウンスの調査した露頭の一つが保存されている<ref>{{cite web | title = ブラウンス露頭 | work = GUPI日本地質案内 | publisher = 地質情報整備・活用機構 | url = http://www.gupi.jp/excursion/contribution/otonashi.html | accessdate = 2009-07-29}}</ref>。1883年には[[茨城県]]稲敷郡木原村(現[[美浦村]])の[[利根川]]と[[霞ヶ浦]]の出会い付近から地元漁師が発見し、東京大学に保管されていた[[ナウマンゾウ]]の[[臼歯]]を記載した論文を発表した<ref>{{cite web | author = 清水正明 | year = 1997 | title = ナウマンやブラウンスの記載したゾウ化石標本 | work = 学問のアルケオロジー | url = http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/03/30900.html | accessdate = 2009-07-29}}</ref>。その他に[[ハシブトガラス]]や[[ニホンオオカミ]]などの論文も書いた。[[蝦夷]]にも調査に出かけ、[[アイヌ]]文化についての論文も著した<ref>{{cite book | author = Refsing, K. | year = 2002 | title = Early European Writings on Ainu Culture: Religion and Folklore. | publisher = Curzon Pr | pages = p.2512 | url = http://books.google.co.jp/books?id=B3U0w0YcbVAC}}</ref>。
 
[[1882年]]にドイツに帰国しハレ大学講師に復職、[[1885年]]にはハレ大学正教授となった。1893年に[[ガンデルスハイム]]にて死去、誕生日は不明だが66歳4か月であったとされる<ref name="Asukayama" />。
 
== 脚注 ==