「司馬遼太郎」の版間の差分

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司馬少年は学校が嫌いで、図書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通学し学校で社会訓練を受けているうちに、[[中国人]]と[[朝鮮人]]に好感を抱くようになった。好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。やがて、司馬にとっての恩人である中国と戦争をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。しかし、それは実際は日本も大好きという感情の裏返しである[[アンビバレンス]]な状態であったと自己分析している{{Sfn|司馬|1998|p=9}}。
 
[[1940年]](昭和15年)に[[大阪高等学校 (旧制)|旧制大阪高校]]、翌年には[[弘前高等学校 (旧制)|旧制弘前高校]]を受験するも不合格。<!--数学が苦手であったため、入試に数学を課さない現在の[[大阪大学]]外国語学を受験し合格。-->[[1942年]](昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(新制[[大阪外国語大学]]の前身、現在は[[大阪大学]]外国語学部)[[モンゴル語|蒙古語]]学科に入学。入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。その際に司馬は見事な[[ガマの油売り]]を一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、[[ロシア文学]]や、[[司馬遷]]の『史記』を愛読。2年上に[[庄野潤三]](英語学科)、1年上に[[陳舜臣]](印度語学科)、同期に[[赤尾兜子]](中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。
 
[[1943年]](昭和18年)11月に、[[学徒出陣]]により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。[[兵庫県]][[加東郡]][[河合村 (兵庫県)|河合村]](現:[[小野市]])青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、[[満州]][[四平市|四平]]の[[四平陸軍戦車学校]]に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になり、これが生死を分けた。卒業後、満州[[牡丹江市|牡丹江]]に展開していた[[久留米]][[戦車第一連隊]]第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌45年に[[本土決戦]]のため、[[新潟県]]を経て[[栃木県]][[佐野市]]に移り、ここで陸軍少尉として[[日本の終戦|終戦]]を迎えた。敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり{{Sfn|司馬|1998|pp=7-8}}、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして[[賭場]]にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「'''いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた'''」<ref group="注">終戦時点での司馬の年齢は正確には22歳で、正確な年齢を記述している著作もある</ref>{{Sfn|司馬|1998|p=7}}からであると述懐している{{Sfn|司馬|1993|pp=283-284}}。[[復員]]後は直ちに図書館通いを再開する。
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