「平田篤胤」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
22行目:
 
平田は『出定後語』の理論を借用して『出定笑語』を書き、文章が平易通俗的であったこともあり、幕末以前、1820年代、1830年代、1840年代の多くの人に読まれ、明治維新に至る[[王政復古]]運動、さらには[[廃仏毀釈]]の思想原理になった<ref>副島隆彦.日本の歴史を貫く柱(PHP文庫)</ref>。
 
幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは'''胤行'''、享和年間以降は篤胤と称した。号は'''気吹舎'''(いぶきのや)、家號を'''真菅乃屋'''(ますげのや)。'''大角'''(だいかく)または'''大壑'''(だいがく)とも号した。医者としては'''玄琢'''(のちに'''玄瑞''')を使う。死後、'''神霊能真柱大人'''(かむたまのみはしらのうし)の名を[[白川家]]より贈られている。
== 生涯 ==
=== 秋田を出奔 ===