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* [[1928年]](昭和3年)10月、広島に於いて晴天11日間興行されたが、今後関西本場所は番付を発表せず、直前の東京場所番付をもってすることとなった(1932年10月、関西本場所廃止まで)。
* [[1931年]](昭和6年)1月場所千秋楽、横綱宮城山が引退を表明し、次に編成された5月場所の番付は、1890年5月場所に『横綱』の地位記載を始めて以来初めて横綱不在の番付(翌1932年10月場所まで)となった。
* 1931年5月場所の番付は、西方幕内出羽海部屋力士が独占した。大関大ノ里以下20人がすべて出羽海部屋所属である。これは大相撲史上空前絶後の記録で、十両も22人中10人と半数近くを占めた。対する東方幕内は[[立浪部屋]]の3人が最多だった。
<!--* 1932年1月場所の番付編成(春秋園事件による改正前)において、前年5月場所で優勝した小結武藏山は関脇を飛び越し新大関に昇進した。小結から新大関に昇進した例は、その後[[1938年]](昭和13年)5月場所の[[前田山英五郎|前田山]]がいるが、前田山の場合は前(1月)場所に横綱玉錦を破り11勝2敗の好成績をあげ、この場所大関が[[鏡岩善四郎|鏡岩]]1人ということも考慮され大関昇進を決定づけた。-->
* [[1933年]](昭和8年)1月場所の番付は前年に起きた春秋園事件で発足した、[[錦洋与三郎|錦洋]]一派の[[大日本相撲連盟]]から脱退し、協会へ帰参した幕内格12名、十両格8名は協会脱退当時(1932年1月)の順位で東西を分けず、地位も記さず別席として[[四股名]]を連ねた番付を別に添付した。この場所の番付は従来より小型となった。翌5月場所には元の大きさに戻った。