「水野忠重」の版間の差分

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| 官位 =[[従五位|従五位下]][[和泉国|和泉守]]
| 幕府 =
| 主君 =[[水野信元]]([[織田信長]])→ [[徳川家康]]→ 織田信長 → [[織田信忠|信忠]] → [[織田信雄|信雄]] → [[豊臣秀吉]] → 徳川家康
| 藩 =
| 氏族 =[[水野氏]]([[豊臣氏|豊臣賜姓]])
| 父母 =父:[[水野忠政]]、母:[[華陽院]]([[大河内元綱]]の養女{{sfn|堀田|1923|p=821}})、義父:''水野信元''<ref>{{efn|兄より家督を継いだので、『寛政譜』等、系図上は義父になる。</ref>}}
| 兄弟 = [[水野近守|近守]]、[[水野信元|信元]]、女([[松平家広 (形原松平家)|松平家広]]室<ref>{{Efn|後に離縁。</ref>}})、[[水野信近|信近]]、[[水野忠守|忠守]]、[[於大の方]]([[松平広忠]]室、[[久松俊勝]]室)、女([[石川清兼]]室)、女([[水野豊信]]室)、[[水野近信|近信]]、[[水野忠勝|忠勝]]、藤助、女([[中山勝時]]室)、女([[水野忠守 (大膳亮)|水野忠守]]室)、[[水野忠分|忠分]]、'''忠重'''
| 妻 = 正室:'''[[都筑吉豊]]の娘'''<br/>側室:宇川氏、某氏ほか
| 子 = '''[[水野勝成|勝成]]'''、[[水野忠胤|忠胤]]、弥十郎、[[水野忠清|忠清]]、[[清浄院 (加藤清正室)|清浄院]]([[加藤清正]]室)、[[水野忠直 (忠重の子)|忠直]]、女([[安部信勝]]室)、女(森本右近室)
| 特記事項 =
}}
[[画像:Grave of Mizuno Tadashige.jpg|thumb|200px|忠重公墓所 (福山市若松町)]]
 
'''水野 忠重'''(みずの ただしげ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[水野氏|水野家]]当主。[[三河国|三河]][[刈谷城]](刈屋城)および[[緒川城]]主、後に[[伊勢国|伊勢]][[神戸城]]主。実姉・[[於大の方]]は[[徳川家康]]の生母で、家康の[[叔父]]にあたり、徳川二十将の一人にも数えられている。
 
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])、[[尾張国]][[知多郡]]を治めた[[国人]]領主・[[水野忠政]]の末子、九男(末子)として誕生。『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政譜』)によれば、母は忠政の継室である[[大河内元綱]]の養女{{sfn|堀田|1923|p=821}}<ref>{{Efn|{{要出典範囲|date=2018年10月|母は[[華陽院]]とされるも詳細は不明(「水野氏法名一覧」によれば生母は本樹院殿栄岩宗盛大姉とも。1492年生まれの華陽院が忠重の生母ならば1541年に忠重を産んだ時は50代近くで当時としてもかなりの高齢出産となってしまう。また華陽院が忠政と離縁し、その後は[[松平清康]](1535年没)等の三河の有力国人と再婚したとされる事とも矛盾が生じてしまう)。}}</ref>}}
初名は忠勝{{sfn|谷口|1995|p=412}}{{sfn|高柳|松平|1981|p=242}}。
 
初め水野家惣領であった異母兄・[[水野信元]]に仕える。信元が[[織田信長]]に属したので、信長の陪臣となった。
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[[永禄]]元年([[1558年]])の尾張緒川・石瀬での戦いに参加{{sfn|谷口|1995|p=412}}。一番に槍合わせをして相手を突き崩し、兄・[[水野忠分|忠分]]に譲って首を獲らせた。信長はその話を聞いて、自ら首を獲るよりも優れた行いだと感心したという{{sfn|堀田|1923|p=823}}。永禄3年([[1560年]])の刈谷十八丁畷の戦いでも軍功を挙げたという{{sfn|堀田|1923|p=823}}{{sfn|谷口|1995|p=412}}。
 
永禄4年([[1561年]])、三河[[岡崎城]]の[[徳川家康|松平元康]](徳川家康)に仕えて、その傘下に入った{{sfn|谷口|1995|p=412}}。同年の春、[[清洲同盟]]によって[[織田氏]]と[[徳川氏|松平氏]]が同盟で結ばれたとはいえ、信元は一貫して信長に属しており、この頃に忠重だけが信元から離れて、甥である元康(家康)に属したらしい{{sfn|谷口|1995|p=413}}。『[[本朝通鑑]]』ではこの理由を兄弟不和によるとして、『寛政譜』でも兄との不和により、三河[[鷲塚城|鷲塚]]に蟄居していたとされている{{sfn|堀田|1923|p=823}}。
 
永禄6年([[1563年]])から翌年にかけての[[三河一向一揆]]の鎮圧で戦功をあげた。八面六尾の活躍で、[[酒井正親]]が籠る[[西尾城]]を救援して一揆軍の勇者・馬場平太夫を討ち取り{{sfn|堀田|1923|p=823}}、[[上和田城]]の合戦では一揆方となった[[蜂屋貞次]]と戦って取り逃がしたものの、小豆坂の合戦では安城の細畷で一揆軍大将・石川新七郎を討ち取った{{sfn|堀田|1923|p=823}}<ref>{{Efn|『[[三河物語]]』によれば、「金ノ団扇ノ指物ヲ指ケル間、新九郎ト見懸て我モ/\ト追(懸タリ。水野藤十郎(忠重)殿懸付て、突落シテ打取給ふ。頓て佐馳(橋)甚五郎(吉実)・大見藤六郎、是兄弟モ一つ場にて打取。」とある。</ref>}}
 
[[武田信玄]]の[[駿河侵攻]]に呼応して、徳川勢も侵攻を開始すると、永禄12年([[1569年]])正月、 入瀬山<ref>{{Efn|現在の富士市にある地名。</ref>}}に陣をいた。[[今川氏真]]が籠もる[[遠江国|遠江]][[掛川城]]の攻撃に加わり、1月21日の天王山の戦いで、今川方の[[伊東武兵衛]]、大谷七十郎を討ち取った{{sfn|堀田|1923|p=823}}。
 
[[元亀]]元年([[1570年]])、[[近江国]]小谷城の戦い]]および[[姉川の戦い]]に従軍して戦功があった{{sfn|堀田|1923|p=823}}。
 
元亀3年([[1573年]])12月22日、[[三方ヶ原の戦い]]で軍功を顕し、家康より兜と鎧を賜った{{sfn|谷口|1995|p=412}}{{Efn|『寛政譜』によれば、頭形黒塗兜・[[仏胴]]・紺糸威鎧{{sfn|堀田|1923|p=823}}}}。これは家康の影武者を務めたためではないか、と考えられる<ref>平井隆夫編『福山開祖・水野勝成』。ISBN 4404019181</ref>。
 
[[天正]]2年([[1574年]])、家康は遠江[[犬居城]](乾城)を攻めたが落とせずに軍を収める際、却って[[天野景貫]]の反撃を受けるが、忠重と[[大久保忠世]]が殿軍を務めて無事に帰還した{{sfn|堀田|1923|p=823}}。
 
天正3年([[1575年]])、[[武田勝頼]]が三河[[吉田城 (三河国)|吉田城]]を襲った時、忠重が城を守るが、出撃して交戦した際に右肩に鉄砲玉を受けて負傷し、玉が肉に留まって出ない状態で、左に槍をもって指揮を続けた{{sfn|堀田|1923|pp=823-824}}。しかしこの傷のせいで次の[[長篠の戦い]]には参戦できず{{sfn|堀田|1923|p=824}}、家臣の[[水野正重|水野清久]](正重)を代理で参加させたという<ref>{{Efn|清久はこのときの様子を『覚書 故水野左近物語』の中で「信長が武田軍がよく馬を使いこなし敵陣を乗り破るので注意せよと警戒していた」と記述している。これがいわゆる「武田騎馬隊」あった説の論拠として使われることがある</ref>。}}
 
同年、信元が[[武田氏]]との内通の嫌疑(美濃[[岩村城]]の[[秋山信友]]に兵糧米を売った容疑)をかけられて岡崎へ逃亡したが、[[織田信長]]の命令で家康は信元親子を自害させた{{sfn|谷口|1995|p=416}}。『寛政譜』では[[佐久間信盛]]の讒言とされるが{{sfn|堀田|1923|p=822}}、これは信元の刈谷城が信盛に与えられたことから生まれた憶測という{{sfn|谷口|1995|p=416}}。
 
天正7年([[1579年]])より凡そ3年間、家康は度々[[高天神城の戦い|高天神城攻囲]]したが、忠重はその都度戦い、しばしば戦功があった{{sfn|堀田|1923|p=824}}。
 
天正8年([[1580年]])8月、織田家臣の[[佐久間信盛]]織田家を追放されて三河刈谷城も没収されると、忠重は信長より刈谷城を与えられ、9月23日に入城した{{sfn|谷口|1995|p=413}}。『寛政譜』では、信元の冤罪が明らかになり、信長が悔いて、忠重を招いて水野家を継がせたとする{{sfn|堀田|1923|p=824}}。水野家当主となったことで忠重は信長の家臣となり、[[織田信忠]]の軍団に組み込まれたらしい{{sfn|谷口|1995|p=413}}。
 
天正9年([[1581年]])1月4日、信忠の命により同族[[水野守隆]]とともに[[横須賀城]]の番手として派遣された{{sfn|谷口|1995|p=413}}。この後、家康の高天神城攻めに加わり、度々信長に報告。1月25日付で、信長より細々とした指示を受けている。この時の忠重は、攻城軍の目付か軍監として徳川に付けられたものと思われている{{refnestEfn|『結城水野家譜』『寛政重修諸家譜』では、高天神城攻めで、忠重は子・勝成と共に、3月の落城時に二の丸に突入して奮戦したとあるが{{sfn|堀田|1923|p=824}}、[[谷口克広]]はどのような立場で参戦したのか疑問であるとしている{{sfn|谷口|1995|p=413}}。}}。
 
天正10年([[1582年]])2月、信忠の[[甲州征伐]]に従軍。武田滅亡の後に信長が凱旋する途中、三河{{読み仮名|[[池鯉鮒宿|{{ruby|池鯉鮒]]|ちりゆう}}]]<ref {{Efn|name="c">|[[愛知県]][[知立市]]にある地名。</ref>}}にて信長を饗応している{{sfn|谷口|1995|p=413}}。同年6月、[[本能寺の変]]が起こると、信忠に従って[[妙覚寺 (京都市)|妙覚寺]]、[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条御新造]]にいたらしいが、難を逃れて京都に潜伏。脱出して、6月11日に三河国刈谷に戻った{{sfn|谷口|1995|p=413}}。
 
『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、[[織田信雄|北畠信雄]]に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている{{sfn|谷口|1995|p=413}}。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。
 
天正12年([[1584年]])3月10日、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]は、信雄方の水野忠重、[[丹羽氏次]]、[[高木貞友]]等を(家臣として)招くが、応じなかった<ref>大日本史料11編5冊819頁</ref>。同月、[[小牧・長久手の戦い#小牧の役|小牧の戦い]]に信雄方として従軍し、13日、子・勝成は伊勢神戸城の救援を命じられ<ref>大日本史料11編5冊857頁</ref>、忠重は(信雄に誅殺された)[[岡田重孝]]の弟・[[岡田善同]]の籠もった{{ruby読み仮名|[[本治城]]|ほんぢじょう}}を攻撃し、これを降伏させ、{{ruby読み仮名|[[常滑城]]|とこなべじょう}}も攻略した{{sfn|谷口|1995|p=413}}{{sfn|堀田|1923|p=824}}。[[小牧・長久手の戦い#長久手の役|長久手の戦い]]では、4月8日、[[岡部長盛]]、[[大須賀康高]]、[[榊原康政]]、[[本多広孝]]、丹羽氏次と共に織田・徳川連合軍の先手を務めた。[[小幡城]]で軍議の後、翌朝未明に[[豊臣秀次|三好秀次]]の本陣を襲撃して潰走させた{{sfn|堀田|1923|p=824}}。6月、[[蟹江城合戦]]でも、丹羽氏次と共に活躍した{{sfn|堀田|1923|p=824}}。
 
[[画像:Grave of Mizuno Tadashige.jpg|thumb|200px|忠重公墓所 (福山市若松町)]]
10月に秀吉は織田信雄の籠もる[[桑名城]]を包囲したが、忠重らは堅く守ってこれを退けた{{sfn|堀田|1923|p=824}}。桑名対陣中、嫡男の勝成が、忠重の家臣・富永半兵衛に讒言されて父に罰を受けたといって、これを殺害した。小牧でこの弁明を受けた忠重は許さずに追放したので、勝成は諸国放浪した{{sfn|堀田|1923|p=826}}。
 
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慶長3年([[1598年]])8月、秀吉が死去すると、遺物左文字の刀を受領した{{sfn|高柳|松平|1981|p=242}}。
 
慶長5年([[1600年]])、家康の[[会津征伐]]には子の勝成が従軍し、三河に留まる。7月19日、三河池鯉鮒<ref{{Efn| name="c"/>}}において浜松から越前府中の新領に帰る[[堀尾吉晴]]を歓待して酒宴を催した際、同席した[[加賀井重望]](秀望)と口論になって殺害された{{sfn|堀田|1923|p=825}}{{sfn|谷口|1995|p=413}}<ref>{{Efn|『徳川実紀』によると大谷吉継が加賀井重望に暗殺を命じたとする。ただし、あまりにも不可解な事件のため、忠重と重望が喧嘩して殺害されたのではないか、という出典不明な俗説を信じる人も多い。</ref>}}。享年60。兄・信元と同じ三河[[楞厳寺 (刈谷市)|楞厳寺]]の水野家の霊廟に葬られた{{sfn|堀田|1923|p=825}}が、子の勝成が追善供養のために建立した[[広島県]][[福山市]]の[[賢忠寺]]にも墓がある。{{-}}
 
== 登場する作品 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
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* {{Citation |和書|last=谷口 |first=克広 |author2=[[高木昭作]](監修)|author-link=谷口克広 |year=1995|title=織田信長家臣人名辞典|publisher=吉川弘文館|isbn=4642027432|ref={{sfnref|谷口|1995}}|pages=412-413|chapter=}}
* {{Citation |和書|last=堀田|first=正敦|editor=|year =1923| title =寛政重脩諸家譜. 第2輯|publisher =國民圖書|url={{NDLDC|1082719/421}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=水野氏|pages=823-825}}
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