「水野忠重」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m れこと → れたこと |
注釈と出典を分ける。{{commonscat}} タグ: 2017年版ソースエディター |
||
16行目:
| 官位 =[[従五位|従五位下]][[和泉国|和泉守]]
| 幕府 =
| 主君 =[[水野信元]]([[織田信長]])→ [[徳川家康]]→ 織田信長 → [[織田信忠|信忠]] → [[織田信雄|信雄]] → [[豊臣秀吉]] → 徳川家康
| 藩 =
| 氏族 =[[水野氏]]([[豊臣氏|豊臣賜姓]])
| 父母 =父:[[水野忠政]]、母:[[華陽院]]([[大河内元綱]]の養女{{sfn|堀田|1923|p=821}})、義父:''水野信元''
| 兄弟 = [[水野近守|近守]]、[[水野信元|信元]]、女([[松平家広 (形原松平家)|松平家広]]室
| 妻 = 正室:'''[[都筑吉豊]]の娘'''<br/>側室:宇川氏、某氏ほか
| 子 = '''[[水野勝成|勝成]]'''、[[水野忠胤|忠胤]]、弥十郎、[[水野忠清|忠清]]、[[清浄院 (加藤清正室)|清浄院]]([[加藤清正]]室)、[[水野忠直 (忠重の子)|忠直]]、女([[安部信勝]]室)、女(森本右近室)
| 特記事項 =
}}
[[画像:Grave of Mizuno Tadashige.jpg|thumb|200px|忠重公墓所 (福山市若松町)]]▼
'''水野 忠重'''(みずの ただしげ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[水野氏
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])、[[尾張国]][[知多郡]]を治めた[[国人]]領主・[[水野忠政]]の
初名は忠勝{{sfn|谷口|1995|p=412}}{{sfn|高柳|松平|1981|p=242}}。 初め水野家惣領であった異母兄・[[水野信元]]に仕える。信元が[[織田信長]]に属したので、信長の陪臣となった。
35 ⟶ 37行目:
[[永禄]]元年([[1558年]])の尾張緒川・石瀬での戦いに参加{{sfn|谷口|1995|p=412}}。一番に槍合わせをして相手を突き崩し、兄・[[水野忠分|忠分]]に譲って首を獲らせた。信長はその話を聞いて、自ら首を獲るよりも優れた行いだと感心したという{{sfn|堀田|1923|p=823}}。永禄3年([[1560年]])の刈谷十八丁畷の戦いでも軍功を挙げたという{{sfn|堀田|1923|p=823}}{{sfn|谷口|1995|p=412}}。
永禄4年([[1561年]])、三河[[岡崎城]]の[[徳川家康|松平元康]](徳川家康)
永禄6年([[1563年]])から翌年にかけての[[三河一向一揆]]の鎮圧で戦功をあげた。八面六尾の活躍で、[[酒井正親]]が籠る[[西尾城]]を救援して一揆軍の勇者・馬場平太夫を討ち取り{{sfn|堀田|1923|p=823}}、[[上和田城]]の合戦では一揆方となった[[蜂屋貞次]]と戦って取り逃がしたものの、小豆坂の合戦では安城の細畷で一揆軍大将・石川新七郎を討ち取った{{sfn|堀田|1923|p=823}}
[[武田信玄]]の[[駿河侵攻]]に呼応して、徳川勢も侵攻を開始すると、永禄12年([[1569年]])正月、 入瀬山
[[元亀]]元年([[1570年]])、[[
元亀3年([[1573年]])12月22日、[[三方ヶ原の戦い]]で軍功を顕し、家康より兜と鎧を賜った{{sfn|谷口|1995|p=412}}
[[天正]]2年([[1574年]])、家康は遠江[[犬居城]](乾城)を攻めたが落とせずに軍を収める際、却って[[天野景貫]]の反撃を受けるが、忠重と[[大久保忠世]]が殿軍を務めて無事に帰還した{{sfn|堀田|1923|p=823}}。
天正3年([[1575年]])、[[武田勝頼]]が三河[[吉田城 (三河国)|吉田城]]を襲った時、忠重が城を守るが、出撃して交戦した際に右肩に鉄砲玉を受けて負傷し、玉が肉に留まって出ない状態で、左に槍をもって指揮を続けた{{sfn|堀田|1923|pp=823-824}}。しかしこの傷のせいで次の[[長篠の戦い]]には参戦できず{{sfn|堀田|1923|p=824}}、家臣の[[水野正重|水野清久]](正重)を代理で参加させたという
同年、信元が[[武田氏]]との内通の嫌疑(美濃[[岩村城]]の[[秋山信友]]に兵糧米を売った容疑)をかけられて岡崎へ逃亡したが、
天正7年([[1579年]])より凡そ3年間、家康は度々[[高天神城の戦い|高天神城を攻囲]]したが、忠重はその都度
天正8年([[1580年]])8月、
天正9年([[1581年]])1月4日、信忠の命により
天正10年([[1582年]])2月、信忠の[[甲州征伐]]に従軍。武田滅亡の後に信長が凱旋する途中、三河{{読み仮名|[[池鯉鮒宿
『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、[[織田信雄|北畠信雄]]に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている{{sfn|谷口|1995|p=413}}。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。
天正12年([[1584年]])3月10日、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]は、信雄方の水野忠重、[[丹羽氏次]]、[[高木貞友]]等を(家臣として)招くが、応じなかった<ref>大日本史料11編5冊819頁</ref>。同月、[[小牧・長久手の戦い#小牧の役|小牧の戦い]]に信雄方として従軍し、13日、子・勝成は伊勢神戸城の救援を命じられ<ref>大日本史料11編5冊857頁</ref>、忠重は(信雄に誅殺された)[[岡田重孝]]の弟・[[岡田善同]]の籠もった{{
▲[[画像:Grave of Mizuno Tadashige.jpg|thumb|200px|忠重公墓所 (福山市若松町)]]
10月に秀吉は織田信雄の籠もる[[桑名城]]を包囲したが、忠重らは堅く守ってこれを退けた{{sfn|堀田|1923|p=824}}。桑名対陣中、嫡男の勝成が、忠重の家臣・富永半兵衛に讒言されて父に罰を受けたといって、これを殺害した。小牧でこの弁明を受けた忠重は許さずに追放したので、勝成は諸国放浪した{{sfn|堀田|1923|p=826}}。
79 ⟶ 81行目:
慶長3年([[1598年]])8月、秀吉が死去すると、遺物左文字の刀を受領した{{sfn|高柳|松平|1981|p=242}}。
慶長5年([[1600年]])、家康の[[会津征伐]]には子の勝成が従軍し、三河国に留まる。7月19日、三河国池鯉鮒
== 登場する作品 ==
86 ⟶ 88行目:
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
92 ⟶ 97行目:
* {{Citation |和書|last=谷口 |first=克広 |author2=[[高木昭作]](監修)|author-link=谷口克広 |year=1995|title=織田信長家臣人名辞典|publisher=吉川弘文館|isbn=4642027432|ref={{sfnref|谷口|1995}}|pages=412-413|chapter=}}
* {{Citation |和書|last=堀田|first=正敦|editor=|year =1923| title =寛政重脩諸家譜. 第2輯|publisher =國民圖書|url={{NDLDC|1082719/421}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=水野氏|pages=823-825}}
{{commonscat|Mizuno Tadashige}}
{{DEFAULTSORT:みすの たたしけ}}
|