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'''乙未事変'''(いつびじへん)は、[[李氏朝鮮]]の第26代国王・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の王妃であった[[閔妃]]が[[1895年]][[10月8日]]、[[三浦梧楼]]らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士([[大陸浪人]])、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに[[暗殺]]された事件<ref name="外交史辞典">{{cite book|和書|author=外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会|title=新版 日本外交史辞典|pages=872,983|quote=三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。(中略)8日早朝、上記計画を決行した。訓練隊、日本軍守備隊、日本警察官、日本人新聞記者・壮士らを動員、大院君を擁して景福官に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。}}</ref><ref name="事典">「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、[[反日派]]の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)</ref>。韓国では閔妃の諡号を採って「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。
'''乙未事変'''(いつびじへん)は、[[李氏朝鮮]]の第26代国王・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の王妃であった[[閔妃]]が[[1895年]][[10月8日]]が暗殺された事変である。朝鮮訓錬隊、朝鮮警務使などに開化派や大院君派など真霊君に心酔し、大院君の貯めた国庫浪費するなど閔妃の国政壟断に不満を持つ朝鮮人たちに加えて、日本軍守備隊、領事館警察官、大陸浪人によって、景福宮・乾清宮内で禹範善に暗殺された。死後、親族や相手派を暗殺し合うなど対立していた興宣大院君によって平民に降格された<ref>崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』pp236-247</ref>
 
== 概要 ==
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日清戦争直後にロシア軍の力を背景に行った閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。こうした中で、日本公使[[三浦梧楼]]、軍事顧問[[岡本柳之助]]らは前年の王宮占領の再現を狙って、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされる<ref name="山田朗">[[山田朗]]『世界史の中の日露戦争』(戦争の日本史20)2009年、吉川弘文館p.38,p.39</ref>が、一方で大院君が軍事顧問の[[岡本柳之助]]に再三に渡り密使を送っていたことや<ref name=p492>p492 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)</ref>、[[10月6日]]に訓練隊を解散し隊長を厳罰に処すとする詮議がなされたことが漏れ伝わったこと<ref name=p491>p491 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)</ref>で激昂した訓練隊は大院君を奉じ決起することとなった<ref name=p491/>という[[一次資料]]も存在している。ただしこの訓練隊の訓練は日本の指導であった事を三浦公使は述べており、その解散を告げられた時三浦公使の頭に、時期が切迫し一日も猶予を許さぬ、という考えが閃いたのだという<ref>黒竜会 編『東亜先覚志士記伝.上巻』昭和8-10、黒竜会出版部、p525、国会図書館デジタル・コレクション= http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1242345&contentNo=296&outputScale=4</ref>。
 
[[1895年]][[10月8日]]午前三時、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士([[大陸浪人]])、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が[[景福宮]]に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された<ref name="外交史辞典"/><ref name="事典"/><ref name="山田朗"/>。この時、三浦らは大院君をかつぎだすため、屋敷から王宮へ参内させたが大院君がのらりくらりと時間を引き延ばしたため、事の露見を防ぐために夜明け前に行うはずだった作戦は破綻したとする説もある<ref>金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.305-p.308</ref>。乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士([[大陸浪人]])、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らや大院君派など朝鮮人ら[[暗殺]]された事件<ref name="外交史辞典">{{cite book|和書|author=外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会|title=新版 日本外交史辞典|pages=872,983|quote=三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。(中略)8日早朝、上記計画を決行した。訓練隊、日本軍守備隊、日本警察官、日本人新聞記者・壮士らを動員、大院君を擁して景福官に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。}}</ref><ref name="事典">「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、[[反日派]]の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)</ref>。韓国では閔妃の諡号を採って「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる
 
なお、日本守備隊は鎮静化のため王宮の警備を行った<ref name=p491/>、侍衛隊と訓練隊との衝突は軽微なものとなった<ref name=p491/>、大院君の護衛に日本人が参加することなどについて三浦梧楼は黙認した<ref name=p493>p493 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)</ref>などとする日本側の記録もある。
 
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=== 事件の背景と性格 ===
[[日清戦争]]が終わると、日本とロシアが[[朝鮮半島]]の支配権を争うことになった<ref>堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24</ref>。日本側は[[大院君]]に接近し、これに対して[[閔妃]]は、日本人の影響下にあった訓練隊を解散しロシアの教官による侍衛隊に置き換えようとしたので日本公使館は危機感をもったされていたのであ<ref>堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-p25</ref>、真霊君を妄信していたことでそこから利権を得ようとする売官売職で郡守や県令等の地方官になった両班たちは、赴任先で収奪の限りを尽した。そのため、1894年には朝鮮農民による朝鮮王朝への反乱である東学党の乱が起きていた<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/west/news/180621/wst1806210002-n1.html|title=【竹島を考える】韓国の人質外交に屈した日本 対北交渉で同じ失敗はするな 下條正男・拓殖大教授|accessdate=2019-01-07|last=INC|first=SANKEI DIGITAL|date=2018-06-21|website=産経ニュース|language=ja}}</ref>。
暗殺事件の背景には、興宣大院君と閔妃の権力闘争(大院君が閔氏一族によって摂政の座を追われた[[1873年]]の最初の失脚以来、20年以上にわたって凄惨な権力闘争を繰りひろげていた)、改革派([[開化派]])と守旧派([[事大党]])の路線闘争、さらに[[朝鮮半島]]をめぐる日本の[[安全保障]]問題、日本と[[清]]の覇権争い、[[日清戦争]]後の日本と[[ロシア帝国]]の覇権争いがあった。そのため、日本公使・[[三浦梧楼]]らの主導による親露派の閔妃を排除するためのクーデターとする説が日本における歴史研究のほとんどで採用されているとの見解があり<ref name="小松2009">{{cite book|和書|title=「いのち」と帝国日本(全集日本の歴史 第14巻)|year=2009|publisher=小学館|author=[[小松裕]]|page=240|quote=閔妃殺害事件に関するこれまでの研究史を見ると、ほとんどが三浦梧楼首謀説をとっている。}}</ref>、歴史事典の多くがこの説を明記している<ref name="外交史辞典"/><ref name="事典"/>。
 
朝鮮側の関与については、朝鮮王室内部クーデターに見せかける意図で興宣大院君や朝鮮の訓練隊が利用されたとする説<ref name="山田朗">[[山田朗]]『世界史の中の日露戦争』(戦争の日本史20)2009年、吉川弘文館p.38,p.39</ref><ref name="金文子"/>の他、朝鮮側が首謀しているとする説や決定的証拠がなく不明とする見解が存在している<ref name=bunmei/><ref name=nikkan/><ref name=nakamura/><ref name=mainichi/>([[#朝鮮人首謀説]]参照)。
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http://147.46.103.182/OIS/GAN/VIEWER.jsp?xmlfilename=GK17289_00I0006_0015&tablename=KYS_GAN_N_TBL
 
</ref>の3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に処刑した<ref name="閣議決定案">高宗は[[露館播遷]]後に朴、尹錫禹に関しては無罪として、補償金200円を出している(閣議決定案 第317号 1896年 4月 25日 第317号)。<span lang=ko> 別紙로 法部大臣이 청의한 朴銑의 伸寃과 尹錫禹의 褒贈과 그 恤金에 관한 건은 朴銑은 무고하므로 伸寃이 가하고, 尹錫禹는 무고에 의한 것으로 그 官을 복귀하고 褒贈과 恤金은 內閣總理大臣이 별도 供議하기로 결정됨이 가함. 朴銑의 伸寃과 尹錫禹의 褒恤 건은 각의 결정한 취지가 있어, 尹錫禹의 恤金은 200元으로 그 유족에게 下付하고 復官 후 貤贈之典은 上裁를 삼가 청하므로 각의에 供함</span></ref>。
 
高宗は[[露館播遷]]後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した<ref>アジア歴史資料センター「朝鮮事変ノ公報ト称スル書類ニ関シ京城駐在一等領事内田定槌ヨリ報告ノ件」レファレンスコードA04010025000 明治29年5月19日付公信第98号</ref>。
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史料によると高宗と純宗は殺害現場にいたことが記録されている<ref>『機密第36号』、『機密第51号』及び『附属地図』</ref>。
 
高宗は1906年、韓国統監代理・[[長谷川好道]]を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べており<ref name="統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告">1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告 顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。</ref>、また、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった[[趙羲淵]](当時軍部大臣)<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wza_13302011_003&tabid=w 高宗実録實錄 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽) 3번째기사]</ref>、[[禹範善]](訓錬隊第二大隊長)、[[李斗璜]](訓錬隊第一大隊長)、[[李軫鎬]](親衛第二大隊長)、[[李範来]](訓錬隊副隊長)、[[権濚鎮]](当時警務使)の6名ついて、「王妃を殺害した張本人である」として処刑を勅命で命じている<ref name="B03050313400" > 電受第75号 「1. 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)」レファレンスコードB03050313400</ref><ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wza_13302011_006&tabid=w 高宗実録實錄 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽) 6번째기사]</ref>。
 
殺害現場にいた[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]は、「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」と[[禹範善]]が「国母ノ仇」であることを目撃したと報告しており、また禹範善自身も「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」と自らが閔妃を殺害したと自白している<ref name=oden31/>。禹は、純宗が放ったとされる刺客、[[高永根]]と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺され<ref>アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』</ref>、1907年2月4日、広島控訴院で高永根は無期、魯允明は12年の刑が言い渡された。同年に統監府は趙羲淵以下六名を特赦することを決定したが、その際、純宗は「閔妃殺害の犯人である禹を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで初めて解決し、両国間数年の疑団も氷解する」として高永根も特赦するよう要求している<ref name=oden31>1907年8月31日付・往電第31号</ref>。
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[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]は[[禹範善]]が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる<ref>1907年8月31日付・往電第31号</ref>。また現場にいた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている<ref name="統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告"/>。
 
====外国人====
{{Notice|この節は歴史的事件を紹介するにあたり[[WP:RS|信頼性に欠ける情報源]]にもとづき記述されています。[[WP:RS|信頼できる情報源]]をご存知の方は記事の充実にご協力ください。}}
王宮に乱入した日本軍守備隊、訓練隊は侍衛隊(景福宮の警護にあたっていた近衛部隊)と戦闘を繰り広げた。侍衛隊の教官はアメリカ人将軍の[[ウィリアム・ダイ]]([[:en:William McEntyre Dye|William McEntyre Dye]])で、ロシア人御用技師[[アレクセイ・セレディン=サバチン]](Алексей Середин-Cабатин)とともに事件を直接目撃した。この経緯については[[イザベラ・バード]]の『[[朝鮮紀行]]』に詳述されている<ref>「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)p.353</ref>。
 
サバチンによる事件についての報告書がロシア科学大学の教授に発見され、米国コロンビア大学において1995年10月6日付でその翻訳が公開されている<ref>[http://koreanstudies.com/ks/ksr/queenmin.txt コロンビア大学 韓国リサーチセンターでの1995年10月6日付け英訳全文]</ref>。サバチンの証言は以下のようなものである(以下は部分訳)。
=== 戦後の主張 ===
: 王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。
: 彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。
: …複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。
: …私は…日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。
: 二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた…
: また、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。
: …私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。
: しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった。<ref>Imperial Russian Legation, Seoul 1895, Telegram 211, Appendix VI:</ref>
 
=== 戦後事件主張影響 ===
[[安川寿之輔]]や[[金文子]]は、閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布されたとし、そうした情報操作には[[福澤諭吉]]の関与があったと主張している<ref>安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』2000年高文研、p.193</ref><ref name=kim>金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.345</ref><ref>ただし、福澤諭吉のものとされる「国家主義」「侵略主義」「アジア蔑視」的な論説が、実際は弟子の[[石河幹明]]の手によるものだったとする研究もある。詳細は[[福沢諭吉の真実]]を参照のこと。</ref>。しかし、これらの民族主義的な主張には閔妃による国庫散財や予言依存、親族による役職独占、事変以前からの大院君派閥との暗殺合戦、朝鮮人内部で不満を抱いている人たちを全て無視していると指摘されている。<ref>崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』pp248</ref>
<!--壮士らに朝鮮式の服装をさせるなど「日本人の関与を明らかにしない」作戦は、多くの外国人に目撃されたこと、日本人壮士らが堂々と凱旋する有様だったことから、「日本人は関与していない」という日本公使館、金弘集内閣の言い分を信じる外交官は誰一人として存在しなかった{{要出典|date=2011年7月}}。-->事件後、ロシアはソウルに水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張が高まる中、ダイらアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与したカウンタークーデター事件[[春生門事件]]が発生。翌年の[[露館播遷]]へとつながっていく。
 
[[安川寿之輔]]や[[金文子]]は、閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布されたとし、そうした情報操作には[[福澤諭吉]]の関与があったと主張している<ref>安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』2000年高文研、p.193</ref><ref name=kim>金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.345</ref><ref>ただし、福澤諭吉のものとされる「国家主義」「侵略主義」「アジア蔑視」的な論説が、実際は弟子の[[石河幹明]]の手によるものだったとする研究もある。詳細は[[福沢諭吉の真実]]を参照のこと。</ref>。しかし、これらの民族主義的な主張には閔妃による国庫散財や予言依存、親族による役職独占、事変以前からの大院君派閥との暗殺合戦、朝鮮人内部で不満を抱いている人たちを全て無視していると指摘されている。<ref>崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』pp248</ref>
 
自身を権力の座から引きずり下ろし、蓄えた国庫を散財して互いの派閥の暗殺合戦を繰り返すなど対立していた閔妃の死後、大院君は閔妃の王妃身分を降格させた<ref>崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』p248</ref>。この事件を期に、興宣大院君と高宗の亀裂は決定的となり、興宣大院君は失脚した。3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなったさいも略式の葬儀しか行われず、しかも高宗は父親の葬儀に参列しなかった<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/inspection.jsp?mTree=0&id=k 朝鮮王朝実録 高宗35年2月22日以降を参照]</ref>。これは父親が妻の暗殺計画の背後にいたと理解していたからであり、高宗は朝鮮の国庫や父親よりも妻を重視していたからだと指摘されている。高宗は親露政策を続けたことで、英米日は危機感を覚えた。日本は当初併合による負担よりも非併合で欧米化支援路線が優勢だったが、高宗の親露方針や影響力のある反対派だった伊藤博文の暗殺を受けて、朝鮮半島のロシア併合による安全保障の危機を阻止するために併合した。ロシアの南下を防ぐためにイギリスやアメリカは日本の朝鮮併合を支持し、朝鮮王朝は皇室と日本人貴族の間の身分になされた。崔基鎬は史実のように高宗が英米と敵対するロシアの大使館に逃亡して、英米の危機感を招かずに国際情勢を読んで英米の支持する日本と組み、守旧派を廃して近代化に力を入れれば併合反対派が優勢だった日本に併合されずに済んだと分析している<ref>崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』p250</ref>。
 
== 「日本側実行犯」の子孫の謝罪 ==
2004年に熊本出身の元教師ら20人によって「明成皇后を考える会」が結成された。同会は、日本側実行犯の後裔を捜し出して関連記録を調査、殺害事件の真相究明を目的としている会であるという<ref>2005年5月9日 朝鮮日報</ref>。2005年5月10日、事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で、「明成皇后を考える会」の会員10人とともに日本側の実行犯とされる家入嘉吉、国友重章の子孫が入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座<ref>同番組によると、「洪陵の前で地面に膝をついて3回お辞儀するのは韓国での仕来りなので、そうして欲しい。」と事前に伝えられていた。 </ref>して謝罪をしている姿を韓国の報道機関が伝えた。墓地を訪れていた閔妃の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた閔妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った<ref>{{cite news|url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=63394&servcode=200§code=200&sectcode=| title =明成皇后殺人犯の子孫が謝罪|publisher =中央日報|date=2005年05月10日}}</ref>。
2004年に熊本出身の元教師ら20人によって「明成皇后を考える会」が結成された。同会は、日本側実行犯の後裔を捜し出して関連記録を調査、殺害事件の真相究明を目的としている会であるという<ref>2005年5月9日 朝鮮日報</ref>。同会が2005年に行った謝罪行は、日本のドキュメンタリー番組『[[テレメンタリー]]』で「114年目の氷解〜反日感情の原点、閔妃暗殺を見つめた5年〜」とのタイトルで放送された。
 
2004年に熊本出身の元教師ら20人によって「明成皇后を考える会」が結成された。同会は、日本側実行犯の後裔を捜し出して関連記録を調査、殺害事件の真相究明を目的としている会であるという<ref>2005年5月9日 朝鮮日報</ref>。2005年5月10日、事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で、「明成皇后を考える会」の会員10人とともに日本側の実行犯とされる家入嘉吉、国友重章の子孫が入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座<ref>同番組によると、「洪陵の前で地面に膝をついて3回お辞儀するのは韓国での仕来りなので、そうして欲しい。」と事前に伝えられていた。 </ref>して謝罪をしている姿を韓国の報道機関が伝えた。墓地を訪れていた閔妃の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた閔妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った<ref>{{cite news|url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=63394&servcode=200§code=200&sectcode=| title =明成皇后殺人犯の子孫が謝罪|publisher =中央日報|date=2005年05月10日}}</ref>。
このドキュメンタリー番組では「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人によるものであった」という国王・高宗や王子・純宗などの証言を日本の工作とした。また、韓国の市民団体が[[櫛田神社 (福岡市)|櫛田神社]]に対して、[[玄洋社]]の[[藤勝顕]]が1895年に『之れ韓王妃を斬つて爾後埋木となつたものなり』と奉納した[[肥前刀]]を、韓国に差し出すか、処分するかを要求している<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2010/03/25/0400000000AJP20100325003000882.HTML 聯合ニュース]</ref>。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐 夢庵勤議」と刻まれているが、これは三浦が閔妃を「女狐」と呼び、閔妃暗殺を「狐狩り」と密かに呼んでいたことと符合するとしている(夢庵とは藤勝顕の[[号]])。また、この市民団体は「明成皇后が暗殺され、その凶器が日本の神社に保管されている事実を日本社会に広く伝え、日本の戦争犯罪を糾明し、誤った歴史認識を正すべきだ」とも主張している<ref>[聯合ニュース http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2010/03/26/0200000000AJP20100326003600882.HTML]</ref>。
 
このドキュメンタリー番組では「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人によるものであった」という国王・高宗や王子・純宗などの証言を日本の工作とした。
== 脚注 ==
 
このドキュメンタリー番組では「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人によるものであった」という国王・高宗や王子・純宗などの証言を日本の工作とした。また、韓国の市民団体が[[櫛田神社 (福岡市)|櫛田神社]]に対して、[[玄洋社]]の[[藤勝顕]]が1895年に『之れ韓王妃を斬つて爾後埋木となつたものなり』と奉納した[[肥前刀]]を、韓国に差し出すか、処分するかを要求している<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2010/03/25/0400000000AJP20100325003000882.HTML 聯合ニュース]</ref>。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐 夢庵勤議」と刻まれているが、これは三浦が閔妃を「女狐」と呼び、閔妃暗殺を「狐狩り」と密かに呼んでいたことと符合するとしている(夢庵とは藤勝顕の[[号]])。また、この市民団体は「明成皇后が暗殺され、その凶器が日本の神社に保管されている事実を日本社会に広く伝え、日本の戦争犯罪を糾明し、誤った歴史認識を正すべきだ」とも主張している<ref>[聯合ニュース http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2010/03/26/0200000000AJP20100326003600882.HTML]</ref>。
 
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
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* [[閔妃]]
* [[暗殺]]
* [[東学党の乱鴟河浦義挙]]
 
{{DEFAULTSORT:いつひしへん}}
[[Category:李氏朝鮮]]