「松前慶広」の版間の差分

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天正19年([[1591年]])、南部地方で[[九戸政実の乱]]が起きると、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加した。『[[三河後風土記]]』には、アイヌが用いた毒矢が大変な威力であることが記されている<ref>[http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ 八雲町公式HP デジタル八雲町史][http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html 第4章松前藩の成立 第1節][http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-054102&IMG_SIZE=1000%2C800&IMG_NO=1639 国文学研究資料館・電子資料館 三河後風土記]</ref>。
 
[[文禄]]2年([[1593年]])1月に[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]で兵を率いて[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]前の秀吉に謁見した。秀吉は「狄の千島の屋形」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、従四位下・[[近衛府#少将|右近衛権少将]]に任じようとするが、慶広はこれを辞退した<ref>{{Citation|和書|chapter=武田家中興の祖松前慶広|editor=沢石太|title=北海道開拓五十年史 史伝及人物編|publisher=鴻文社|year=1921|page=3}}</ref>。慶広は代わりに蝦夷での徴税を認める朱印状を求め、秀吉はこれを認めると共に志摩守に任じた。慶広は朱印状を領民に示すと共に、アイヌを集めてアイヌ語に翻訳し、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、全蝦夷地([[樺太]]、[[北海道]])の支配を確立した{{Sfn|高倉|1980|pp=31-33}}。
 
=== 徳川政権期 ===
[[慶長]]3年([[1598年]])に秀吉が死去すると、[[徳川家康]]と誼を通じた。[[慶長]]4年([[1599年]])、家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上した。また、[[アイヌ語]]「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めた。慶長5年(1600年)には家督を長男・[[松前盛広|盛広]]に譲り、盛広も従五位下若狭守を賜ったが、その後も慶広が政務を司った。慶長8年(1603年)には江戸に参勤して百人扶持を得た。慶長9年([[1604年]])、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下伊豆守に叙位・任官された。これらを以って、松前氏を大名格とみなし、慶広を松前藩の初代藩主とする{{Sfn|高倉|1980|pp=32-33}}が、正式な家格は[[交代寄合]]である。
 
慶長14年(1609年)に[[猪熊事件]]が起きて[[近衛府|左近衛少将]]・[[花山院忠長]]が蝦夷・[[上ノ国町|上ノ国]]に配流された。慶広は忠長を城下の福山(松前)で賓客として厚遇した。忠長は5年で津軽へ移されるが、京都の公家に誼を得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めるとともに、松前に京都の公家文化をもたらした{{Sfn|高倉|1980|p=33}}。