「関東地方」の版間の差分

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*[[長享の乱]]:[[長享]]元年(1487年) - [[永正]]2年(1505年)
 
と相次ぎ、小規模なものも含めれば、関東地方は連年続くことになった戦争によって荒廃した。一連の戦いによって関東管領・鎌倉公方(古河公方)をはじめ、関東の各氏は勢力が衰え、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]にはこれに乗じた小田原北条氏([[後北条氏]]=[[伊勢平氏]]を称す)が台頭し、関東各地を次々と支配下に置いた。対抗勢力としての上杉氏は[[河越城の戦い|河越夜戦]]に敗れた。
 
[[16世紀]]後期には小田原北条氏の勢力圏は関東地方の西半分をはじめ広範な地域におよび、それに対して東部地域では[[里見氏]]、佐竹氏、宇都宮氏がこれに抗し領土を守った。最終的に[[朝廷]]の意向を受けた[[豊臣秀吉]]が鎮圧に乗り出し、[[小田原征伐]]によって小田原北条氏は滅亡、同氏に従っていた千葉氏・小山氏などの旧家も運命をともにした。小田原北条氏の旧領には[[徳川氏]]が入り、後にそれがそのまま江戸幕府の勢力基盤として継承されたこと、小田原征伐で中央政権に服属して安堵を受けた里見氏、佐竹氏、宇都宮氏などもその後の中央政権の動向に巻き込まれてその後20年余りのうちに関東の領有権を没収されていったことから、この変動が生じた[[天正]]18年(1590年)を関東地方における中世と近世の画期として捉えられている。ただし、従来の支配体系が全否定された訳ではなく、小田原北条氏の拠点になった城の動向を見ても徳川氏の本拠となった[[江戸城]]や[[小田原城]]、[[川越城]]などのように近世以後も継承されたもの、[[箕輪城]](→[[高崎城]])、[[唐沢山城]](→[[佐野城]])、[[本佐倉城]](→[[佐倉城]])のように領国支配の安定に伴う新城築城まで用いられ続けたもの、[[八王子城]]、[[鉢形城]]、[[栗橋城]]のように廃城になったものなど様々であり、単純に天正18年を中世と近世の「断絶」とみなす考え方は、継承したものと断絶したものが混在していた地域の実情を見誤る危険性をはらんでいる<ref> 齋藤慎一「中近世移行期の断絶と継承」(『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第10章(論文初出2003年))</ref>。