削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
213行目:
{{main|汎スカンディナヴィア主義|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争}}
[[File:Tropper 1849.jpg|thumb|250px|[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]を発端に勃発した[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|デンマーク戦争]]。上記は反乱を鎮圧し、コペンハーゲンに帰還したデンマーク軍。]]
デンマークの啓蒙思想的改革を遂行したフレデリック6世はナポレオン戦争の後、著しく減衰した国力の回復に注力したが再興は容易ではなかった<ref name="tunoda_103">[[#角田1955|角田1955]]、p.103。</ref>。通商政策に阻まれて主力であった穀物を中心としたの輸出産業がままならなくなり、商工業の疲弊と不振を招いた。しかし、1830年代に入り西欧諸国の[[産業革命]]が進行するに従って穀物価格の高騰が発生し、デンマークの経済も回復の兆しを見せるようになった<ref name="tunoda_103"/>。生活が豊かになるにつれて勢力を伸張させていった国民たちは団結意識に目覚めるようになり、[[1842年]]には[[国民自由党 (デンマーク)|国民自由党]]を、[[1846年]]には[[農民党 (デンマーク)|農民党]]を結成するに至った<ref name="tunoda_104">[[#角田1955|角田1955]]、p.104。</ref>。国民主義、自由主義の機運が高まっていく時代の流れを明察した[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン8世]]は自由憲法の制定の必要性を感じ取っていたが、同時に湧き上がった[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]の解決に力を割かれたため、彼の在位中に実現には至らなかった<ref name="tunoda_105">[[#角田1955|角田1955]]、p.105。</ref>。[[1848年]]に[[フレデリク7世 (デンマーク王)|フレデリク7世]]が即位するとシュレースヴィヒがデンマーク領であることが宣言された。[[ホルシュタイン公国]]はこの宣言に対して反乱を起こし、キールに臨時政府を設けて独立を宣言した<ref name="tunoda_108">[[#角田1955|角田1955]]、p.108。</ref>。デンマークが反乱の鎮圧に動くと臨時政府は[[ドイツ連邦]]に援けを求めたため、これを契機にデンマークと[[プロイセン王国]]との間で[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|デンマーク戦争]]が勃発した<ref name="tunoda_108"/>。戦況はプロイセン優位で進んでいたがロシアやイギリスの介入により膠着状態に陥り、[[1852年]]に[[ロンドン議定書]]が取り交わされ、一応の決着を見た<ref name="tunoda_109">[[#角田1955|角田1955]]、p.109。</ref>。しかし、[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]が即位すると特別憲法を制定してシュレースヴィヒ、ホルシュタイン両国の併合を画策したため、再び反乱が勃発し、これを支援するプロイセン、オーストリアとの間で第二次デンマーク戦争に発展した<ref name="tunoda_109"/>。プロンの[[オットー・フォン・ビスマルク]]の外交政策によりデンマークは孤立化し、[[1864年]]、両国に関する一切の権利を破棄する[[:en:Treaty of Vienna (1864)|ウィーン条約]]が締結され、一連の問題の終結を見た<ref name="tunoda_109"/>。
 
[[File:Dalgas -August Jerndorff.jpg|180px|left|thumb|デンマーク経済を復興させたエンリコ・ダルガス]]