「明知遠山氏」の版間の差分

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天正16年([[1586年]])冬、利景の養子となっていた一行は、信州から駿府へ向かう途中、甲信国境の平沢峠で大雪のため凍死している{{Sfn|堀田|1923|p=100}}。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い|関ヶ原の合戦]]では、森氏から代わって明知城を領した[[岩村城]]主[[田丸直昌]]が西軍についたため、利景は田丸方の守る明知城を落城させ、その功で戦後に旧領回復を成し遂げて[[江戸幕府]]成立後は6531石の[[交代寄合]]となり、[[串原遠山氏]]が永田と姓を変えて代々家老となった。しかし[[一国一城令]]のため、利景の子・'''[[遠山方景]]'''(勘右衛門)のとき明知城を取り壊し、明知城の大手門前に[[明知陣屋]]を構えて本拠地としたが、5代目の[[遠山伊清]]の時に江戸常駐となり[[陣屋]]の[[代官]]を村上氏に任せて廃藩置県まで継続した。
 
12代'''遠山景高'''は安芸守となりペリー来航時の浦賀奉行を務める。景高の五男信任は高家武田家に養子に入った。方景の孫による分家からは、江戸後期に著名な[[遠山景元]]が出ているが、その父は永井氏の出身の養子であり、血縁はない。