「川端康成」の版間の差分

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[[1930年]](昭和5年)、前年12月に結成された[[中村武羅夫]]、[[尾崎士郎]]、[[龍膽寺雄]]らの「[[十三人倶楽部]]」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の[[十字軍]]」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった<ref name="itaga14"/>。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている<ref name="jijoden"/>。また同年には、菊池寛の[[文化学院]]文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、[[日本大学|日大]]の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した<ref name="hideko2">「第二章 愛犬秘話」({{Harvnb|秀子|1983|pp=45-74}})</ref>。この頃は次第に[[昭和恐慌]]が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった<ref name="dokuhonnenpu"/>。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「[[意識の流れ]]」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。
 
続いて翌[[1931年]](昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『[[改造 (雑誌)|改造]]』に発表した。[[時間]]や[[空間]]を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている<ref name="itaga14"/>。4月から、[[書生]]の[[緑川貢]]を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した<ref name="hideko2"/>。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・[[梅園龍子]]を引き抜いて、洋舞([[バレエ]])、[[英会話]]、[[音楽]]を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが<ref>「三月文壇の一印象」(新潮 1933年4月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=75-86}}に所収</ref><ref name="shindo27">「第二部第七章 昭和八年」({{Harvnb|進藤|1976|pp=311-324}})</ref>、そのバレエ鑑賞が、その後の『[[雪国 (小説)|雪国]]』の島村の人物設定や、『[[舞姫 (川端康成の小説)|舞姫]]』などに投影されることになる<ref name="dokuhonnenpu"/><ref name="shindo26">「第二部第六章 一つの整理期」({{Harvnb|進藤|1976|pp=296-310}})</ref>。この年の6月には、画家・[[古賀春江]]と知り合った。12月2日には妻・秀子との[[婚姻届]]を出した{{refnest|group="注釈"|この年に[[大宅壮一]]の妻・愛子が死去したため、大宅の家にお手伝いに来ていた[[青森県]][[八戸市]]出身の少女・嶋守よしえ(小学校5年生)を川端宅で引き取ることとなり、よしえのきちんとした身許[[保証人]]になるため夫婦の籍を入れたとされる<ref name="hideko3">「第三章 千客万来の日々――満州行」({{Harvnb|秀子|1983|pp=75-156}})</ref>。のちに、嶋守よしえの娘・敏恵も、川端家のお手伝いとなる<ref name="mori116">「第十一章 自裁への道――〈魔界〉の果て 第六節 昭和四十七年四月十六日」({{Harvnb|森本・下|2014|pp=579-582}})</ref>。}}。
 
=== 『禽獣』――虚無の眼差し ===
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[[1949年]](昭和24年)1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」と改題)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』の各章の断続的発表が各誌で開始された。9月からも同様に、『[[山の音]]』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の[[家族]]を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた<ref name="dokuhonnenpu"/>。同月、[[イタリア]]の[[ヴェネツィア|ベニス]]での[[国際ペンクラブ]]第21回大会に寄せて、日本会長として、〈[[平和]]は[[国境線]]にはない〉とメッセージを送り、〈戦後四年も経つのに日本の詩人、批評家、作家が(為替事情などのために)一人も外国に行けないのを奇異に感じないか〉と疑問を投げて、[[朝鮮動乱]]直前のアジア危機に触れつつ、〈政治の対立は平和をも対立させるかと憂えられる。われわれ(日本ペンクラブ)が西と東との相互の理解と批評との未来の橋となり得るならば、幸いこれに過ぎるものはない〉と伝えた<ref name="penclub"/>。10月に、祖父の火葬を題材とした少年時代の執筆作「[[骨拾ひ]]」を『文藝往来』に発表した。11月には[[広島市]]に招かれ、[[豊島与志雄]]、[[青野季吉]]と3人で[[原爆]]被災地を視察した<ref name="penclub"/><ref name="atogaki10">「あとがき」(『川端康成全集第10巻 花のワルツ』新潮社、1950年5月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=194-195}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|川端は同行者を[[豊島与志雄]]、[[小松清]]と書いているが、『日本ペンクラブ三十年史』では、同行者は豊島与志雄、[[青野季吉]]となっている<ref name="penclub"/>。}}。この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した<ref name="tenju">「天授の子」(文學界 1950年2月号)。{{Harvnb|小説23|1981|pp=545-602}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref><ref name="koyano"/>。
 
[[1950年]](昭和25年)2月、[[養女]]・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。4月には、ペンクラブ会員らと共に、再び原爆被災地の広島・[[長崎市|長崎]]を慰問して廻り、広島では「日本ペンクラブ広島の会」を持ち、平和宣言を行なった<ref name="atogaki10"/>。川端は、〈原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希ふ心をかためた〉、〈私は広島で平和のために生きようと新に思つたのであつた〉としている<ref name="tenju"/>。長崎では、『[[この子を残して]]』の著者・[[永井隆 (医学博士)|永井隆]]を見舞った<ref name="album4">「『ただ一つの日本の笛』を吹く」({{Harvnb|アルバム川端|1984|pp=65-73}})</ref>。旅の後、川端は[[京都]]に立ち寄り、相反する二つの都(広島、京都)に思いを馳せた<ref name="atogaki10"/>。そして、焼失したと聞かされていた『[[凍雲篩雪図]]』([[浦上玉堂]]の代表作)と奇遇し、すぐさま購入した。川端はお金を用意するよう妻へ懇願する手紙の中で、〈気味が悪いやうなめぐりあはせだ〉、〈何としても買ひたい。焼けたといふ事で埋もれ、行方不明になるのは勿体ない。玉堂の霊が僕にこの奇遇をさせたやうなものだ〉と書いている<ref name="touun">「川端秀子宛ての書簡」(1950年4月26日、27日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|pp=531-534}}に所収</ref>。8月、国際ペンクラブ大会に初の日本代表を送るため、[[スコットランド]]の[[エジンバラ]]での大会に[[募金]]のアピールを書き送った<ref name="penclub"/>。『千羽鶴』『山の音』連作のかたわら、12月から「[[舞姫 (川端康成の小説)|舞姫]]」を『[[朝日新聞]]』に連載開始する。この年、[[鎌倉文庫]]が倒産した。
 
[[ファイル:Yasunari Kawabata 1951.jpg|thumb|left|130px|林芙美子の葬儀委員長を務める川端(1951年)]]
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*地獄(1950年5月)
*蛇(1950年7月)
*'''[[舞姫 (川端康成の小説)|舞姫]]'''(1950年12月-1951年3月)
*たまゆら(1951年5月)
*岩に菊(1952年1月)
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*『歌劇学校』(ひまわり社、1950年12月) - 装幀・挿画:中原淳一
*『少年』(目黒書店、1951年4月) - 十六歳の日記、伊豆の踊子、少年、を収録。装幀:[[岡鹿之助]]
*『[[舞姫 (川端康成の小説)|舞姫]]』([[朝日新聞社]]、1951年7月) - 装幀:岡鹿之助。題字:[[高橋錦吉]]
*『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』([[筑摩書房]]、1952年2月) - 山の音、千羽鶴、を収録。装幀・題簽:[[小林古径]]
*『万葉姉妹』([[ポプラ社]]、1952年8月) - 「作者のことば」付。装幀(カバー絵):[[松本昌美]]。挿画:[[花房英樹 (洋画家)|花房英樹]]
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*『[[掌の小説]]百篇』(上・下)(新潮文庫、1952年8月) - 解説:伊藤整
*『[[文章読本|新文章読本]]』(新潮文庫、1954年9月) - 「まえがき」(初刊本と同じもの)付。解説:伊藤整
*『[[舞姫 (川端康成の小説)|舞姫]]』(新潮文庫、1954年11月) - 解説:三島由紀夫
*『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』(新潮文庫、1955年2月)- 解説:山本健吉
*『[[浅草紅団]]』(新潮文庫、1955年11月) - 解説:[[十返肇]]