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Huyuan496 (会話 | 投稿記録)
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康熙帝は、即位後に起こった[[三藩の乱]]を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて[[台湾]]を併合し[[福建省]]に編入、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的には[[ロシア]]と[[ネルチンスク条約]]を結んで東北部の国境を確定させ、[[外蒙古|北モンゴル]]を服属させ、[[チベット]]を保護下に入れた。
 
また、この頃[[東トルキスタン西域]]を根拠地として[[オイラト]]系の[[ジュンガル]](準噶爾)部が勃興していたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部の[[ガルダン]]を破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼし、[[バルハシ湖]]にまでおよぶ東トルキスタン西域を支配下に置き、この地を[[新疆]](ice jecen イチェ・ジェチェン)と名付けた([[清・ジュンガル戦争]])。
 
これによって[[黒竜江]]から[[新疆]]、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。
 
こうして、少数の満洲族が圧倒的に多い[[漢民族]]を始めとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、一人の君主が複数の政治的共同体を統治する[[同君連合]]となり、中華を支配した王朝の中でも特有の制度を築いた。省と呼ばれた旧明領は皇帝直轄領として明の制度が維持され、藩部と呼ばれた南北モンゴル・チベット・東トルキスタン西域ではそれぞれモンゴル王侯、[[ダライ・ラマ]]が長である[[ガンデンポタン]]、[[ベグ]]といった土着の支配者が取り立てられて間接統治が敷かれ、[[理藩院]]に管轄された。満洲族は[[八旗]]に編成され、軍事力を担った。また、皇帝が[[行幸]]で直轄する地域を訪れる際には漢民族の支配者として、藩部の支配地域に行く際には[[ゲル (家屋)|ゲル]]に寝泊りを行いモンゴル服を着用するなど、[[ハーン]]として振舞うことで関係を維持した。重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関[[軍機処]]が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。
 
清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の[[康熙字典]]、雍正帝の[[古今図書集成]]、乾隆帝の[[四庫全書]]の編纂は名高い。一方で満洲族の髪型である[[辮髪]]を漢民族にも強制し(ただしモンゴルは元々辮髪の風習を持ち、新疆では逆に禁止している)、[[文字の獄]]や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧する一方、[[科挙]]の存続等の様々な懐柔政策を行っている。