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== 歴史 ==
=== フランス革命期から第一帝政期(1789年 - 1814年) ===
[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の甥として生まれ、フランス王国の摂政を務めた[[フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公フィリップ2世]]は、[[{{仮リンク|ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモン|label=サン=シモン公爵]]|fr|Louis de Rouvroy de Saint-Simon}}によれば、(少なくとも気を許した者たちとの集まりや談義の中で)自分が[[グレートブリテン王国|イギリス]]の[[古典的自由主義|自由]]や立憲君主制に惹きつけられている、と常日頃から発言していたとされる。フランス革命の初期、その曾孫で国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]と[[マリー・アントワネット|その妃]]を毛嫌いしていた[[ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフ]]は、自然とリベラル王党派の代弁者を引き受けることになった。ルイ・フィリップ・ジョゼフの息子[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王位を獲得できたのと同様、この立場から自由主義者の推す国王候補となることはきわめて容易であった。
 
一方、それまでフランス王家であったブルボン家嫡系(その当主は[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]から[[アンリ・ダルトワ|シャンボール伯爵アンリ]]まで)は自由を定める憲章あるいは[[憲法]]を制定する用意はあったものの、自分たちの王権が「[[王権神授説|神意]]」によること、臣民の自由は国王の自由意思によって付与されるものであることを主張してもいた。こうした[[封建制|封建]]的な言葉に多くのフランス人が感情を害し、人々はブルボン王家の下での恩恵としての自由は、常に罰としての自由の撤回と結びつくのだと判断した。そのため、[[共和制]]よりは君主政体のほうがフランスには望ましいが、一人の人間の意志に左右される自由に甘んじるのも嫌だと考える人々は、国民の選択によって支配者に選ばれたと称するボナパルト一族の支持者(ボナパルティスト)か、「[[自然権|原初の契約]]」および[[人民主権|人々の意思]]に基づいて統治するつもりのあるオルレアン家の公爵たちの支持者(オルレアニスト)となった。ブルボン王家の嫡系を支持するレジティミストとオルレアニストとは、統治基盤に対する考え方に関して深い亀裂が存在するのである。