「戊辰戦争」の版間の差分

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一方、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上取り消され、それが江戸薩摩藩邸に伝えられたが、江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人はこの命令を無視して工作を続けていた。西郷隆盛が率いる薩摩藩は、旧幕府側を挑発する目的で、江戸で火付け(放火)・強盗を行った。12月23日には[[江戸城]]西ノ丸が焼失。これも薩摩藩と通じた[[奥女中]]の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた[[庄内藩]]の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・[[稲葉正邦]]は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる([[江戸薩摩藩邸の焼討事件]])。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。
 
一連の事件は[[大阪|大坂]]の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく[[会津藩]]らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の[[幕府歩兵隊]]・会津藩・[[桑名藩]]を主力とした軍勢(総督・[[大多喜藩]]主[[大河内正質|松平正質]])を京都へ向け行軍させた。
 
{{quotation|臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主[[島津茂久]])奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。|討薩表(部分)}}