「前神寺」の版間の差分

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== 概要 ==
[[File:Maeɡamizi ɨ0.jpg|220px|thumb|成就社]]
西日本最高峰石鎚山の7合目標高1400mにあり、発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であったが、江戸時代以降の変遷により、麓の西田(標高50m付近)に本拠を移すも、数十年その後の神仏分離令により廃寺の憂き目に遭うもあったが苦難の末再興し現在の隆盛に繋げている。本堂前での柴燈護摩は節分・お山開き開闢・閉闢の年三回あり、さらにお山開き開闢時には石鎚登山ロープウェイ下谷駅前でも行なわれる。不動護摩は、管長自ら導師として元旦の年明け直後に護摩堂と続いて奥前神寺とで行われ、また毎月20日夜に護摩堂で催行されている。
== 歴史 ==
役の行者([[役小角]])が石鎚山の頂上を目指すもあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき、斧(鈇)を砥石で磨ぐ老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「成せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、ついには登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鈇[[蔵王権現]]となって現れたのを感得した。その後、行者が当地(現在は[[石鎚神社]]中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる。そして、その尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされている。
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江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓に出張所として里寺納経所で通称里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置したため、本寺を通称として奥前神寺と呼ぶようになった。真念の『四国遍路道指南(1687年刊)』には、里前神寺は前札所で本札所は麓より12里の石づち山前神寺(奥前神寺)と書かれていて、寂本の『四国遍礼霊場記(1689年刊)』には、奥前神寺は本堂護摩堂その他堂宇相連なり本社は拝殿釣殿奥殿の重層で多数の摂社がありと壮大な伽藍であったことを表している。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった<ref>寂本『四国遍礼霊場記』の里前神寺の項より</ref>。また、[[西条藩]]主である[[松平家]]の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)[[東照宮]]を里前神寺にまつり、[[三葉葵]]の寺紋を許した。
[[File:Maeɡamizi 0ɨa.jpg|100px|thumb|道標<ref>東側入口にあり、四国第六十四番里前寺と彫られていたが、後年、里の文字が削られた</ref>]]
1700年代初期頃には別当を名乗るようになっていた[[横峰寺]]と別当職の独占を争い明和6年(1769)<ref>その裁定が文政8年(1825)であるという説もあり</ref>幕府の裁定を受け、勝つことができたため、奥前神寺は常住社、里前神寺は前神寺と称するようになった。その後の『四国遍礼名所図会(1800年刊)』を見ると最上段に本社(蔵王権現社)<ref>1689年刊の寂本の本にはこの建物は描かれていない</ref>があり一段下に本堂(石鈇社)さらに下に大師堂さらに下に本坊と現在の石鎚神社口之宮本社と同じ配置と同様で壮の広大な伽藍になっており本寺機能が里に移されているのがわかり、石鈇山は常に参ることが出来ないためここで拝すと書かれていて64番札所が確定している。
 
[[File:Maeɡamizi ɨɨ.jpg|180px200px|thumb|前神寺と石鎚神社]]
1700年代初期頃には別当を名乗るようになっていた[[横峰寺]]と別当職の独占を争い明和6年(1769)<ref>その裁定が文政8年(1825)であるという説もあり</ref>幕府の裁定を受け、勝つことができたため、奥前神寺は常住社、里前神寺は前神寺と称するようになった。その後の『四国遍礼名所図会(1800年刊)』を見ると最上段に本社があり一段下に本堂さらに下に大師堂さらに下に本坊と現在の石鎚神社口之宮本社の配置と同様で壮大な伽藍になっており本寺機能が里に移されているのがわかり、石鈇山は常に参ることが出来ないためここで拝すと64番札所が確定している。
[[明治]]の[[神仏分離令]]により、常住社(奥前神寺)と前神寺(里前神寺)ともに石鎚神社となり、当寺は廃寺となる。また、東照宮は明治5年西条市大町に西東照宮として移転した<ref>その後の明治16年に西條神社に改称。西條神社の案内看板より</ref>。なお、廃寺となり前神寺を出る時、本尊と権現像と僅かの寺宝は持ち出し、その後、[[1878年]]([[明治]]11年)に塔頭寺院の医王院のあった現在地に前上寺<ref>この時は「神」の字を使うことが許されなかった</ref>として復興され、1907年、前神寺の旧称に復す。奥前神寺は、今宮道の最終地点に再興され、さらに[[石鎚登山ロープウェイ]]の開通(1969年開業)の翌年に山上駅の上の現在地に移転される。
[[File:Maeɡamizi ɨɨ.jpg|180px|thumb|前神寺と石鎚神社]]
[[明治]]の[[神仏分離令]]により、常住社(奥前神寺)と前神寺(里前神寺)ともに石鎚神社となり、当寺は廃寺となる。また、東照宮は明治5年西条市大町に西条東照宮として移転した<ref>その後の明治16年に西條神社に改称。西條神社の案内看板より</ref>。なお、廃寺となり前神寺を出る時、本尊と権現像と僅かの寺宝は持ち出し、その後、[[1878年]]([[明治]]11年)に塔頭寺院の医王院のあった現在地に前上寺として復興され、1907年、前神寺の旧称に復す。奥前神寺は、今宮道の最終地点に再興され、さらに[[石鎚登山ロープウェイ]]の開通(1969年開業)の翌年に山上駅の上の現在地に移転される。
 
昭和22年(1947年)御室派から独立、真言宗石鈇派の総本山となった。
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* 弘法水:海中から真水が湧いている。{{ウィキ座標|33|55|43.15|N|133|10|28.22|E|type:landmark_region:JP-38|地図|name= 弘法水
}}
* [[湯之谷温泉 (愛媛県)|湯之谷温泉]]
* [[石鎚神社]]
* [[湯之谷温泉 (愛媛県)|湯之谷温泉]]
* [[石鎚スカイライン]]
* [[面河渓]]