「文禄・慶長の役」の版間の差分

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{{観点|date=2015年5月}}
{{Battlebox
|battle_name = 文禄の役 
|campaign = 文禄の役
|image = [[画像:WakouLandingColor.jpg|280px]]
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|result = 豊臣'''秀吉死去'''で日本軍が帰国して終結{{Sfn|菊池正憲|2012|p=234}}。[[講和]]せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。<small>(「[[柳川一件]]」も参照)</small>
|combatant1 = {{JPN1590}}
|combatant2 = [[image:Left-facing dragon pattern on Wanli Emperor's imperial robe.svg|22px]] [[明]]<br />[[image:Flag of the king of Joseon.svg|22px]] [[李氏朝鮮]]
|commander1 = '''総大将'''[[小早川秀秋]]
;一番および二番隊
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|casualties1 = 不明
諸説あり
|casualties2 = 不明 
諸説あり<ref group="注" name="mss" /><ref group="注">ルイス・フロイスは朝鮮人の被害について、日本のものと比べ次のように記している。『朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(しも)にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。』完訳フロイス日本史5 第44章より。</ref>(文禄・慶長両役の総計)
|}}
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=== 日朝関係前史 ===
隣国である日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持った。秀吉が生きていた当時からも大部分は認識されており、現在では以下の外交および軍事的出来事が前史として両国に存在していたことが分かっている。{{main|日朝関係史}}
 
 
[[663年]]に、[[唐]]・[[新羅]]連合軍と[[大和朝廷]]・[[百済]]連合軍が衝突した[[白村江の戦い]]があり、大和・百済側が敗北した。これ以後、大和朝廷は朝鮮半島への直接介入を止めてしまい、(何度か計画は持ち上がったものの)日本側からは数万に及ぶ大規模な出兵は文禄の役まで約千年間も途絶えることになった。しかし一方で交易は断続的に続けられた<ref name="2010ri" />。他方、[[812年]]から[[906年]]までの間、小規模な海賊による[[新羅の入寇]]が繰り返され、[[997年]]から[[1001年]]にかけての[[高麗]]海賊による入寇があった。[[1019年]]には、[[高麗]](及び傘下の[[女真族]])による[[刀伊の入寇]]があった。
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明側では宋応昌・沈惟敬が共謀し、部下の謝用梓と徐一貫を皇帝からの勅使に'''偽装して'''日本に派遣することにした。一方、日本の秀吉には、この勅使は「侘び言」を伝える者だと報告されていた。
 
この講和交渉は日本と明との間で行われ、朝鮮は交渉の場から外された。朝鮮側は国王以下一貫して講和に反対していたが、明軍は朝鮮の立場を一切無視して日本側との交渉を始めた。朝鮮政府は交渉に口を挟む権利がなく、ただ明にすがっているだけだった。李如松は表向きは朝鮮側の意向を体して日本軍征討を約束するが、実際には朝鮮軍に日本軍への攻撃を停止させる命令を出すというありさまであった{{Sfn|旧参謀本部|1995|pp=223,234}}<ref>中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館 114頁</ref>。
 
4月18日、合意条件に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使・沈惟敬・朝鮮の二王子([[臨海君]]、[[順和君]])とともに釜山まで後退した。
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===日本軍陣立(慶長)===
和平交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられた。以下は慶長2年2月22日付の秀吉朱印状「慶長再征之役進發人數書」に基づく日本軍の陣立。参謀本部の『日本軍陣立て』{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=266}}とは書き方が異なるが一次史料に従った<ref>[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/221794  豊臣秀吉朱印状(慶長役陣立て)] </ref><ref>{{Citation|和書|last= |first= |author-link= |editor=豊太閤展覧会 |title=豊公余韻|year=1939|chapter=29 慶長再征之役進發人數書|publisher=白木屋計画部|pages= |url={{NDLDC|1116679/39}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>。
 
'''再出征軍'''・総計141,500人<ref>『慶長二年陣立書』に基づくが、兵站を担当した兵数不詳の寺沢正成を含まない。(『文禄・慶長の役』/中野等 192頁)</ref>
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順天新城では、[[小西行長]]、[[松浦鎮信]]、[[有馬晴信]]、[[五島玄雅]]、[[大村喜前]]の5氏13,700人{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=306}}が在番していた。
明・朝鮮連軍の内、西路軍、水軍が順天城に攻撃目標を定めた。西路軍は明軍21,900人で[[劉綎]]が率い、朝鮮軍は5,928人で[[権慄]]が率いた。水軍は[[陳璘]]率いる明水軍19,400人、朝鮮水軍7,328人は[[李舜臣]]が率いた。明・朝鮮連合軍の合計は55000人<ref>朝鮮王朝実録 31-10-12-5 http://sillok.history.go.kr/id/kna_13110012_007</ref>に及んだ。
慶長3年(1598年)9月19日、地上から明・朝鮮軍が順天新城に進攻し、海上からも明・朝鮮水軍が砲撃を加えたが日本軍に撃退される{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=308}}。続いて20日21日と明・朝鮮水軍が城に迫ったが、日本軍は防戦してこれを退け、明の遊撃[[李金]]が負傷し、戦死した明兵も数知れずとある。
10月2日、明・朝鮮軍は水陸両面から総攻撃を仕掛けた。地上では攻城具を連ねて外郭部に攻めかかったものの、城からの日本軍の鉄砲や大砲による反撃は激しく多くの死傷者を出した。また日本軍は機を見て城から出撃して敵を斬り倒し、攻城具に火を放って焼き払った{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=309}}。この日地上では明・朝鮮軍は八百余人の戦死者を出して撃退された。また水軍による海上からの攻撃も撃退され、朝鮮水軍の蛇渡僉使[[黄世得]]が戦死、薺浦万戸[[朱義寿]]、蛇梁万戸[[金声玉]]、海南県監[[柳珩]]、珍島郡守[[宣義卿]]、康津県監[[宋尚甫]]が負傷した。
3日、劉綎は陳璘に「今夜水陸共同で夜襲を決行すべし」と伝えた{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=309}}。ここにおいて陳璘は午後8時頃水軍を率いて上げ潮に乗じて進み、夜半城下に迫り日本軍と攻防戦となる。戦闘中俄に引潮となると、明水軍の唐船二十三隻(『宣祖実録』、李舜臣の『乱中日記』では沙船十九隻、號船二十餘隻)が浅瀬に座礁する。これを日本軍が炎上させた{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=310}}。明兵に死傷及び捕虜となるものが甚だ多く出て、生還した者は百四十余名に過ぎなかった。翌4日も明・朝鮮の水軍による攻撃は継続されたが、城の守りは堅く撃退された。
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明・朝鮮軍は大きな被害を出しながら攻城に失敗し、10月7日になると、ついに包囲中の地上軍は撤退し、明軍は古順天に1万余を残し、劉綎自身は富有まで撤退した{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=310}}。これにともない水軍も10月9日、海上封鎖を解いて古今島([[莞島郡]]古今面)に撤退した{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=310}}。明軍の退路上には投棄された兵糧が散らばっており、この幾らかは日本軍が戦利品として入手した。こうして、兵数で圧倒的に勝っていた明・朝鮮の西路軍・水軍は敗北し、順天城攻略作戦は失敗に終わった。
 
この三城同時攻撃(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)では、明・朝鮮連合軍が動員した総兵力は11万を超え、前役・後役を通じて最大規模に達していた。また兵糧や攻城具も十分に準備してのものであったが、明・朝鮮連合軍の総力を挙げての一大攻勢は日本軍の反撃の前にすべて失敗に終わった。朝鮮王朝実録には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている<ref>"是時, 東路天兵二萬四千, 我兵五千五百十四名; 中路天兵二萬六千八百, 我兵二千二百十五名; 西路天兵二萬一千九百, 我兵五千九百二十八名; 水路天兵一萬九千四百, 我兵七千三百二十八名, 共計十餘萬。資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。" [http://sillok.history.go.kr/id/wna_13110012_007 『宣祖実録十月十二日条』]</ref>。
 
=== 戦争の終結 ===
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== 日本軍の補給 ==
文禄・慶長の役において、日本は初動において16万人に対する莫大な輸送量に対する補給を見事になしとげたが、[[黄海道]]を経て海路から北京を攻略する計画は制海権を得られずに補給線の確保ができなかったことから断念している。<ref>海幹校戦略研究 2013年12月 P129</ref>また、朝鮮半島は陸路、海路ともに輸送経路が整備されておらず、補給活動で損耗が伴うような状態であった。<ref>文禄・慶長の役(壬辰倭乱)開戦初期における. 朝鮮側の軍糧調達とその輸送.  六反田  豊</ref>
 
朝鮮半島における補給線については、寸断されずに継続していたとされるが<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 158頁〜167頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref>、近年の韓国の歴史学会からは「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が行われている(例・日韓歴史共同研究報告書(第1期)・鄭求福発表論文『壬辰倭乱の歴史的意味』「李舜臣による海戦の勝利によって海路を通じた軍糧の輸送も遮断された。」)
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豊臣政権を倒した徳川氏の江戸幕府治下における朝鮮出兵に対する見方は[[林羅山]]の『豊臣秀吉譜』が鶴松の死による狂気にみたように否定的な見方が強かったが、一方で朝鮮通信使を江戸幕府への「朝貢使」と位置付けて、朝鮮出兵をその前提として解釈する流れも存在した。[[堀正意]]の『[[朝鮮征伐記]]』や[[山鹿素行]]の『[[武家事紀]]』はこの流れを汲んでいる。また、国学における[[本居宣長]]の『[[馭戒慨言]]』も同じ路線に立つが、こうした主張は「日本の武威」を強調するとともに、江戸幕府による朝鮮出兵の後処理を単なる平和回復ではなく、幕府によって朝鮮の再服属化と三韓征伐の約束である朝貢が回復されたとする認識によるものである<ref name="inoue2016">井上泰至「朝鮮観の変転-近世の歴史叙述と対外認識を論ずるために-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P3-25</ref>。なお、本居は出兵の失敗の原因として秀吉の敬神の欠如と朝鮮での無益な民衆殺害が原因であったとしている<ref>田中康二「国学者の歴史認識と対外意識-本居宣長『馭戒慨言』をめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4</ref>。
 
18世紀末期から19世紀初頭にかけてロシアの南下が警戒され始めると、朝鮮が朝鮮出兵の報復のためにロシアと組んで日本を攻撃するのではという噂が流れ、[[文化露寇]]を扱った[[南豊亭永助]]の『[[北海異談]]』には朝鮮出兵を対ロシア戦の参考にすべき先例として取り上げるだけではなくロシアと朝鮮による挟撃を警戒する記述が記されたり、『[[絵本太閤記]]』・『[[絵本朝鮮軍記]]』など朝鮮出兵に関する本が出されりした<ref>金時徳「フヴォストフ事件と『北海異談』-壬辰戦争の戦争史的な検討と『海国兵談』の利用を中心に-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P49-84</ref>。
[[天保]]年間には[[川口長孺]]によって『[[征韓偉略]]』が著される。川口は中国や朝鮮の史料も参照しながら事実関係を考証しているが、一方で「日本の武威」を強調
している<ref name="gouyama">合山林太郎「近世漢詩に描かれた壬辰戦争」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P459-477</ref>。
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{{豊臣政権}}
 
{{デフォルトソート:ふんろくけいちようのえき}}
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