「ルイ14世 (フランス王)」の版間の差分

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王室はパリに戻ったが、乱平定の功績者コンデ公とマザランが対立して'''貴族のフロンド'''が勃発する。マザランに対する貴族と民衆の不満から反乱軍の勢力は強く、マザランは一時亡命を余儀なくされ、ルイ14世は再びパリから逃れざるを得なくなった<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.112-113.</ref>。パリに入城したコンデ公が優位に立つが、1652年に満13歳を迎えたルイ14世が成人を宣言するとパリ高等法院は王権側に付き、コンデ公はパリからの退去を余儀なくされてフロンドは分裂した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.113.</ref>。1652年に優位に立った王太后がマザランをフランスに呼び戻すと高等法院は再び王権に背き、コンデ公がパリに舞い戻った。だが、コンデ公はパリ市民の支持を受けられず、混乱の長期化に疲弊したフロンド派が相次いで脱落し、[[1653年]]にコンデ公は[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]へ亡命し、ルイ14世はパリへ帰還して乱は終結した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.114.</ref>。
 
マザランは乱中の譲歩を次々と撤回して、高等法院を抑え込みにかかり、伝統的な帯剣貴族たちによる全国三部会開催要求も無視した<ref>[[#長谷川 2009|長谷川 2009]],p.268.</ref>。この頃の出来事として、17歳のルイ14世が狩猟の帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院に立ち寄り、法服貴族たちを高飛車に恫喝して有名な「'''朕は国家なり'''」(''L'État, c'est moi''、''State is me''、俺が国家だ)の科白を言い放ったというエピソードが[[ヴォルテール]]の『ルイ14世の時代』に記述されている<ref>[[#成瀬 1978|成瀬 1978]],pp.282-283.</ref>。ルイ14世を象徴する有名な言葉ではあるが、現代の研究では実際にルイ14世が発した言葉ではなく創作であると考えられている<ref>[[#成瀬 1968|成瀬 1968]],pp.223-224.</ref>。
[[ファイル:Louis XIV wedding.jpg|thumb|250px|ルイ14世と[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ]]との婚儀。<br />デストラン作画の[[タペストリー]]<ref>[[#吉田 1978|吉田 1978]],p.20.</ref>、17世紀。]]
三十年戦争は終わったが、フランスはスペインとの戦争を継続しており、テュレンヌがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公とネーデルラントで戦った([[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|フランス・スペイン戦争]])。フランスは[[イングランド共和国|イングランド]]から軍事支援を受け、[[1658年]]の[[ダンケルク]]近郊の[[砂丘の戦い (1658年)|砂丘の戦い]]で英仏同盟は勝利した。翌[[1659年]]に結ばれた[[ピレネー条約]]によって[[ピレネー山脈]]を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世はスペイン王[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の王女[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリア・テレサ]](マリー・テレーズ)と婚約した。