「よど号ハイジャック事件」の版間の差分

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=== 板付空港へ ===
この要求に対し江崎副操縦士は「運航しているのは福岡行きの国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」と犯人グループに説き、給油の名目で8時59分に当初の目的地である板付空港に着陸した。なお実際は予備燃料が搭載されていたため、平壌まで無着陸で飛行することが可能であった<ref name=":0">{{Cite book|author=佐々淳行|title=日本赤軍とのわが「七年戦争」 ザ・ハイジャック|date=|year=2013|accessdate=|publisher=文藝春秋|pages=15-49|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref><ref name=":1">{{Cite book|author=佐藤栄作|title=佐藤栄作日記〈第4巻〉|year=1997|accessdate=|publisher=朝日新聞社|pages=62-66}}</ref>。
 
[[日本の警察|警察]]は国外[[逃亡]]を阻止すべく機体を板付空港にとどめることに注力し、[[自衛隊]]機が故障を装い滑走路を塞ぐなどのいくつかの工作を行うが、かえって犯人グループを刺激する結果になった。焦った犯人グループは離陸をせかしたが、機長の説得によって人質の一部を解放することに同意。13時35分に[[女性]]・[[子供]]・病人・高齢者を含む人質23人が機を降りた。
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=== 交渉 ===
金浦国際空港に着陸後、韓国当局は犯人グループと交渉を開始。犯人グループは即座に離陸させるように要求したものの、韓国当局は停止した[[エンジン]]を再始動するために必要となるスターター(補助始動機)の供与を拒否。この結果、よど号は離陸することができなくなり、事態は膠着する。管制塔から「一般客を下ろせば北朝鮮に行くことを許可する」との呼びかけも行われ<ref name=":1" />、犯人グループは強硬な態度を保ったものの、[[食品|食料]]等の差し入れには応じた。
 
また、31日の午後には日本航空の特別機が[[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]運輸政務次官ら[[日本国政府|日本政府]]関係者や日本航空社員を乗せて羽田空港を飛び立ち[[4月1日]]未明にソウルに到着。[[大韓民国の政治#行政|韓国政府]]の[[丁來赫|丁来赫]](チョン・ネヒョク)[[国防部 (大韓民国)|国防部長官]]や[[白善ヨプ|白善燁]](ペク・ソニョプ)[[国土交通部|交通部長官]]、朴璟遠(パク・キョンウォン)[[行政安全部|内務部長官]]とともに犯人グループへの交渉に当たることになった。
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=== 乗客解放 ===
1日午後には[[橋本登美三郎]][[運輸大臣]]もソウルへ向かい<ref name=":1" />、金山政英駐韓[[特命全権大使]]らとともに韓国当局との調整に当たった。数日間の交渉を経た[[4月3日]]に、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になることで犯人グループと合意。犯人グループの1人である[[田中義三]]と山村が入れ替わる形で乗り込む間に乗客を順次解放し、最終的に地上に降りていた田中と最後の乗客1人がタラップ上で入れ替わる形で解放が行われた。また、乗員のうち[[客室乗務員]]も機を降りることが許された。解放された人質は日本航空の特別機の[[ダグラス DC-8]]-62(JA8040、飛騨号)で福岡空港に帰国した。
 
なお犯人側から山村政務次官の身元について[[日本社会党]]の[[阿部助哉]][[衆議院議員]]に証明を行ってほしい旨の依頼があり、[[成田知巳]][[日本社会党委員長]]や[[沢田政治]]の同意のもと[[4月2日]]に阿部議員がソウルに渡り(午後10時に日本航空が直行便を出した)山村政務次官」が本であることを言した。このときの情勢について、[[佐藤栄作]]首相は「国民も各方面でいらいらし、韓国も嫌な北鮮ではあるが、暴力学生相手に約百名の乗客の生命行っ守るめには北上亦やむなしと云ふ気持ち。干系者はずい分苦労した様子」と日記に綴っている<ref name=":1" />
 
=== 北朝鮮へ ===
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=== 亡命受け入れ ===
よど号が到着した後、北朝鮮側は態度を硬化させ、「乗員や機体の早期返還は保証できない」と表明<ref name=":1" />。日本政府がなすべきことをせず、自分たちに問題を押し付けたとして非難した。また犯人グループと乗員、山村政務次官に対しては公開による尋問が行われ、長期間の抑留が想定される厳しい状況になった。ただし、乗員と山村に対して行われた尋問は形式だけのものであり、[[韓国料理|朝鮮料理]]の[[食事]]と個室が与えられた上で(「休みたい」という本人たちの意思は無視されたものの)、[[映画]]鑑賞が用意されるなどのもてなしが提供された。
 
[[4月4日]]、北朝鮮は再度日本を非難をする一方で、「人道主義的観点からとして機体と乗員の返還を行う」と発表。同時に“飛行機を拉致してきた学生”に対し必要な調査と適切な措置を執るとして、犯人グループの亡命を受け入れる姿勢を示した。これを受け、日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表した。佐藤首相の日記でも「一同おおよろこび。北鮮の好意を感謝する」とある<ref name=":1" />
 
=== 人質帰国 ===
翌日[[4月5日]]早朝、乗員たちは出発準備のために美林飛行場へ移動する。ところが、北朝鮮にはボーイング727に対応するスターター(補助始動機)<ref>ボーイング727は現代の飛行機のエンジンスターター用のAPU([[補助動力装置]])がなかったため、補助始動機が必要だった。</ref>がなかったため、一時は出発が危ぶまれた。日本航空は[[モスクワ]]経由でエンジンスターターを届けるべく手配を開始したが最終的には圧縮空気ボンベを現地で調達し車両用のバッテリーで機内のバッテリーに充電を行いエンジンが始動できた。空港を離陸したよど号は、北朝鮮側から飛行経路を指示されそのエリアを通過後、日本国内上空からよど号を呼ぶ日航機を経由して無線で脱出を報告。直接羽田へ向かう事を連絡した機長、副操縦士、航空機関士、山村政務次官の4人を乗せて帰路に就き、[[美保飛行場|美保]]上空を経由し羽田空港に到着。空港では大臣ら関係者が出迎え<ref name=":1" />、彼らが無事に帰国したことにより事件は一応の収束を見た。
 
この日の朝にNHKが放送した報道特別番組はビデオリサーチ・関東地区調べで40.2%の視聴率を記録した<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争—そのとき一億人が感動した』108-109ページ、227ページ。</ref>。