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また、[[1970年代]]初頭より「[[セマウル運動]]」なる農村振興運動を開始し、[[1976年]]の農村電化率は91%に達した<ref>{{Harvnb|林|1991|loc=pp.77-79}}</ref>。
[[1969年]]に自らの大統領三選を可能とするために[[3選改憲]]を実施した後、[[1971年大韓民国大統領選挙|1971年]][[4月27日]]の大韓民国大統領選挙では[[新民党]]の[[金大中]]を破って思惑通り三選を果たし、第7代大韓民国大統領に就任した。なお、この就任式には日本から佐藤栄作首相が出席し、
しかし、大統領選挙は辛勝だった上に、直後の[[1971年]][[5月25日]]に実施された[[国会 (大韓民国)|国会]][[第8代総選挙 (大韓民国)|総選挙]]([[第8代総選挙 (大韓民国)|第8代総選挙]])で野党が躍進し、与党が議会の2/3以上を占めることができなかったため、朴正煕の大統領四選は不可能となった<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.130-132}}</ref>。[[第8代総選挙 (大韓民国)|第8代総選挙]]による野党躍進により朴正煕の大統領四選不可能が決定したことは朴正煕大統領の権力基盤を揺らがせ、国内での反体制[[学生運動]]が加速、危機感を覚えた朴正煕は[[1971年]][[12月6日]]に「北朝鮮の脅威」を口実に国家[[非常事態宣言]]を発するなど独裁色を強めた<ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.133-134}}</ref>。既に1971年[[2月6日]]に発表された[[米韓共同声明]]に従って[[在韓米軍]]の[[第7歩兵師団 (アメリカ陸軍)|第7歩兵師団]]は撤退されており、北朝鮮の脅威に対話で臨んだ朴正煕大統領は[[1972年]][[7月4日]]に朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相と共に[[南北共同声明]]を発表した<ref>{{Harvnb|池東|2002|ref=池(2002)|loc=ch.3, p.112}}</ref><ref>{{Harvnb|木村|2008|ref=木村(2008.8)|loc=pp.132-134}}</ref>。
==== 第四共和国時代(1972年10月17日 - 1979年10月26日) ====
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