「川端康成」の版間の差分

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康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)<ref>川嶋至「川端康成伝の問題点」({{Harvnb|作品研究|1969|pp=448-467}})</ref>、しばらくは近所の[[百姓]]女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた<ref name="zenshu35nenpu"/>。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、[[作文]]が得意で群を抜いていたという<ref name="tomie"/>。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと[[醤油]]をふくませた[[鰹節|かつを節]]を入れて巻いた、からい[[海苔巻]]〉を食べさせてもらいながら、〈[[いろは順|いろは]]〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい[[読み書き]]はできた〉と川端は当時を述懐している<ref name="andon"/><ref name="omoidasu"/>。なお、[[笹川良一]]とは小学の同級生であった<ref name="ryoichi">[[笹川良一]]『人類みな兄弟』(講談社、1985年8月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=53-54}}</ref><ref name="dokuhonnenpu">羽鳥徹哉「川端康成年譜」({{Harvnb|文芸読本|1984|pp=248-255}})</ref>。祖父同士が[[囲碁]]仲間で<ref name="ryoichi"/>、笹川の父・鶴吉も、[[易学]]に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという<ref name="tomie"/><ref name="sasagawa"/><ref name="kiteisofu"/>。
 
しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌[[1909年]](明治4342年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した<ref name="zenshu35nenpu"/>。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという<ref name="fuboeno3"/>。熱病に倒れた芳子の[[危篤]]を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を[[易]]で占った。10歳の康成は姉の[[訃報]]をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた<ref name="soushiki">「会葬の名人」〈のち「葬式の名人」〉(文藝春秋 1923年5月号)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=71-82}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ<ref name="juroku"/>。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった<ref name="koen"/>。
 
小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「[[甲]]」であった<ref name="dokuhonnenpu"/>。康成は[[絵]]が得意であったため、[[文人画]]をたしなんでいた祖父の勧めで[[画家]]になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の[[図書館]]の本は一冊もらさず読んでしまった<ref name="gendai"/>。康成は毎日のように庭の[[モッコク|木斛]]の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み<ref name="fuboeno4">「父母への手紙(続)」(「父母への手紙」第四信)(若草 1933年9月号)。{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|小説5|1980|pp=181-232}}に所収</ref>、[[講談]]や戦記物、史伝をはじめ、[[立川文庫]]の[[冒険小説]]家・[[押川春浪]]に親しんだ<ref name="omoidasu"/><ref name="gendai"/>。