「宮古路豊後掾」の版間の差分

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*豊後節「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」が出世作であり最高傑作と言われている。新作は少なく、豊後節の段物集「宮古路月下の梅(江戸版)」「宮古路窓の梅(大阪版)」に収録されている作品の多くは、[[義太夫節]]の世話浄瑠璃(近松門左衛門作)から道行部分を抜粋し脚色したものである。豊後掾の創作した作品には「寿の門松」「三度笠相合駕籠道行」「頼光四天王大江山道行」「与作小まん夢路の駒」などがあり、いずれも[[近松門左衛門]]が筆をとっている。
*豊後節は[[一中節]]をことごとくやわらげたものであり、劇的というより情緒的で煽情的、セリフより美しい歌謡本位の行き方に主眼がおかれ、[[一中節]]よりもはるかに艶がある憐情たっぷりのものであった<ref name="kitsukawa2">『日本音楽の歴史』吉川英史著、1965年、262頁、ISBN4-422-70003-0</ref>。一口に軟派の代表とされる豊後節ではあるが、宮古路豊後掾の豊後節と、高弟文字太夫の豊後節とでは性質が異なり、前者は原作の俯瞰的な語り手の立場を主体とし、詞章(歌詞)に寄りかかって語っていたもので、後者は恋情を語るという点では前者と同じだが、複数の世界や趣向を絡めた複雑な筋立てで、演出も派手であったという。この後者の劇性の高さは[[歌舞伎]]伴奏に適したのちの[[常磐津節]]へとつながり、従来の豊後節の特徴であり豊後掾が目指した感性に訴えるような曲節を受け継いだのが[[新内節]]である。
*当時の狂歌に『河東裃、外記袴、半田羽織に義太股引、豊後かはいや丸裸』と他流(河東節や一中節)の愛好者が豊後節弾圧を形容したものであるが、これは却って、いかに豊後節が隆盛していたのかを示している。また、この様に言われたのは豊後節が[[常磐津節]]へと変貌しつつある段階のことは明らかなので、その隆盛に対する嫉妬の矛先は豊後掾ではなく文字太夫であったと推察できる<ref name="iwasa2">『江戸豊後浄瑠璃史』岩沙慎一著、1968年、34・35頁</ref>。