「井伊直親」の版間の差分

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[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])、[[井伊直満]]の子として誕生。
 
天文13年([[1544年]])、[[小野政直]]の讒言によって父・直満を[[今川義元]]に誅殺されると、更なる誅殺対象になりかねない幼少の直親は家臣に連れられ、井伊谷を出奔。祖父・[[井伊直平|直平]]から[[龍潭寺 (浜松市)|龍潭寺]]の住持に招聘された[[文叔瑞郁]]禅師の縁を頼って、[[武田氏|武田]]領であった[[信濃国]][[伊那郡]][[松源寺 (長野県高森町)|松源寺]]へ落ち延びた。一説によると、信濃では[[塩澤氏]]の娘との間に[[高瀬姫]]と[[井伊吉直|吉直]]の一男一女を儲けたとされる。
 
[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])に井伊谷への帰参が叶うと、祝田(静岡県浜松市北区細江町)を拠点とし、[[奥山朝利]]の娘・[[奥山ひよ|ひよ]]を娶る。[[永禄]]3年([[1560年]])、従兄であり養父・[[井伊直盛|直盛]]が[[桶狭間の戦い]]で戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江は「[[遠州錯乱]]」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野政直の子・[[小野道好|道好(政次)]]の讒言により、主君・[[今川氏真]]から[[徳川家康|松平元康]](のちの徳川家康)との内通の疑いを受ける。縁戚であった[[新野親矩]]の取りなしで、陳謝のために[[駿府城|駿府]]へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)または同年3月2日<ref group="注釈">『[[井伊家伝記]]』では、永禄5年12月14日とする。『静岡県史 資料編』は、「異本塔寺長帳」などの史料を典拠として、直親が討たれた日を永禄5年3月2日とする。</ref>、[[掛川城|掛川]]で今川家の重臣・[[朝比奈泰朝]]の襲撃を受けて殺害された<ref>千葉篤志「相次ぐ一族・家臣の死と、直虎登場の背景とは?」(歴史と文化の研究所編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年、47頁)</ref>。享年27。