「宮古路豊後掾」の版間の差分

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Bunchu1747 (会話 | 投稿記録)
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これら豊後節から派生した浄瑠璃は'''豊後系浄瑠璃'''と呼ばれており、[[常磐津節]]・[[富本節]]・[[清元節]]は合わせて'''豊後三流'''、これに[[新内節]]を加えて豊後四流とも呼ばれている。あまりの人気に豊後節は禁止令などが発令され、舞台出演禁止、稽古禁止などの厳しい弾圧を受けた。扇情的な詞章や語り口が、頻繁に起きた武士階級の子息令嬢の心中事件と関係づけられたのが原因と言われているが、一説では[[尾張藩]]の[[徳川宗春]]と親交があり、[[享保の改革]]を出した[[徳川吉宗]]との対立が、少なからず豊後節弾圧に関係しているという説もある。また、豊後掾の髪形や長羽織を真似る「文金風」が一世風靡したと言われているが、年齢を考慮すると「文金風」も「豊後節弾圧」も高弟である宮古路文字太夫によるところが大きいという<ref name="yasuda">『常磐津節の基礎的研究』安田文吉著、1992年、39頁、ISBN4-87088-529-8  C3395</ref>。
 
宮古路豊後掾は1740年に没したあと、1746年に高弟であり養子でもある初代[[常磐津文字太夫]]によって[[浅草寺]]に供養<ref>「[http://www.hugyou.jp/meibo/index.cgi?acto=find2&cond=and&word=%8F%F2%97%DA%97%9E名墓録]」 </ref>、慰霊碑が建立されている(戒名は還国院誉本自性居士)。また、1975年には[[折口信夫]]によって「文金風流」という名で戯曲化もされている。
 
==豊後節の特徴==
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*豊後節「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」が出世作であり、最高傑作と言われている。創作された新作は少なく、豊後節の段物集「[[宮古路月下の梅]](江戸版)」「[[宮古路窓の梅]](大阪版)」に収録されている作品の多くは、[[義太夫節]]の世話浄瑠璃(近松門左衛門作)から道行部分を抜粋し豊後節になおしたものである。豊後掾の創作した作品には「寿の門松」「三度笠相合駕籠道行」「頼光四天王大江山道行」「与作小まん夢路の駒」などがあり、いずれも[[近松門左衛門]]が筆をとっている。
*豊後節は[[一中節]]をことごとくやわらげたものであり、劇的というより情緒的で煽情的、セリフより美しい歌謡本位の行き方に主眼がおかれ、[[一中節]]よりもはるかに艶がある憐情たっぷりのものであった<ref name="kitsukawa2">『日本音楽の歴史』吉川英史著、1965年、262頁、ISBN4-422-70003-0</ref>。一口に軟派の代表とされる豊後節ではあるが、宮古路豊後掾の豊後節と、高弟である文字太夫の豊後節とでは性質が異なり、前者は原作の俯瞰的な語り手の立場を主体とし、詞章(歌詞)に寄りかかって語っていたもので、後者は恋情を語るという点では前者と同じだが、複数の世界や趣向を絡めた複雑な筋立てとなっており、演出も派手であったという。この後者の「劇性の高さ」は[[歌舞伎]]伴奏に適したのちの[[常磐津節]]へとつながり、従来の豊後節の特徴であり豊後掾が目指した「感性に訴えるような曲節」を受け継いだのが[[新内節]]である。
*当時の[[狂歌]]に『河東裃、外記袴、半田羽織に義太股引、豊後かはいや丸裸』と他流(河東節や一中節)の愛好者が豊後節大弾圧を揶揄したものがあるが、これは却って、いかに豊後節が隆盛していたのかを示している。また、この様に言われたのは豊後節が[[常磐津節]]へと変貌しつつある段階のことは明らかなので、その隆盛に対する嫉妬の矛先は豊後掾ではなく文字太夫であったと推察できる<ref name="iwasa2">『江戸豊後浄瑠璃史』岩沙慎一著、1968年、34・35頁</ref>。
*享保7年([[1722年]])に、心中の流行を危惧した幕府により心中物(男女相対死)の上演が禁止された。それでも上方で人気を博し窮地を乗り越えることができたのは「語り口を工夫し、既成作品を活かす」といった国太夫節・半中節の特徴が挙げられる。