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その後、劉備が遠征してきた曹操を退け、漢中を制覇し漢中王を称すると、[[尚書令]]・護軍将軍に任じられたが、翌25年(220年)に病死した。劉備は何日間も彼を悼み、'''翼侯'''という[[諡号]]を諡った<ref>劉備から諡号を与えられたのは法正だけである(『蜀書』先主伝)。</ref>。死後、子が後を継いで[[関内侯]]となり、後に奉車都尉・[[漢陽郡|漢陽]]太守に昇進した。
 
[[章武]]2年([[222年]])、[[夷陵の戦い]]で劉備が大敗した際、諸葛亮は「法正殿が生きていれば、陛下(劉備)の東征を止められたはずだ。仮に止められなくとも、今回のような大きな被害はしなかっただろう」<ref>原文は「法孝直若在、則能主上制、令不東行。就復東行、必不傾危矣」</ref>と嘆いている。
 
==逸話==