「ロッド・エヴァンス」の版間の差分

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 [[1968年]]、ディープ・パープルのヴォーカリストとしてメジャーデビューした。『ハッシュ』などのヒット曲にも恵まれ、3枚のアルバムをリリースしたが、やがてハードロックを指向するバンドメンバーとすれ違うようになり、わずか1年で解雇されてしまった。
 
その後、エヴァンスは[[キャプテン・ビヨンド]]という自身のバンドを結成。アルバムを2枚発表して高い評価を得たが、とくにアメリカでのセールスが振るわず、商業的には苦戦を強いられた。またメンバー定着せず、自らも脱退するかったため、バンドが分解どをてしまった。[[1977年]]再びメンーがつまってアルバムを1枚出したが、これも商業的な成功とは言いがたく、キャプテン・ビヨンドの活動終わ軌道に乗らなかった。
 
 [[1977年]]、再びキャプテン・ビヨンドのメンバーが集まってアルバムを1枚出したが、これも商業的には成功せず、エヴァンスのキャプテン・ビヨンドでの活動は終わった。
 [[1980年]]、エヴァンスはロック史に残る無様な事件を起してしまう。それはいわゆる「偽ディープ・パープル事件」である。エヴァンスはこの当時解散状態にあったディープ・パープルの名前を利用し、無断で活動を行ったのである。
 
 [[1980年]]、エヴァンスはロック史に残る無様な事件を起してしまう。それはいわゆる「偽ディープ・パープル事件」である。エヴァンスはこの当時解散状態にあったディープ・パープルの名前を使用し、無断で活動を行ったのである。
エヴァンスはメンバーによく似た見た目のマイナーミュージシャンを集め、[[新聞]]に広告を載せ、アメリカで[[コンサート]]を開いた。たしかに彼はディープ・パープルのオリジナル・メンバーには違いないが、誰からも許可を得ていなかった。また、コンサートでは自分が在籍した時期のものでない人気曲(『スモーク・オン・ザ・ウォーター』『ハイウェイ・スター』)などを数多く採り上げたこともあり、実体としては単なる偽者に過ぎなかった。
公演中にそう気付いた観客は激怒し、ビンをステージに投げつけるなどをしたという。こうしたコンサートは数回行われたが、ディープ・パープル側のスタッフが広告などで虚偽を知らせる表明をし、騒動は終局した。
 
 その後、エヴァンスは[[裁判]]にかけられて敗訴、こうした活動を禁じられるだけでなく、自分が関わったディープ・パープル時代の[[印税]]所得権利の一切をも剥奪されてしまった。この事件後、彼はロック界の表舞台から消え、それっきりどのような活動をしているかは定かでない。
しかし、皮肉にもこの事件によって元メンバー(2期)の間に結束が生まれ、それがディープ・パープル再結成へと繋がっていくことになった。そうした意味では、エヴァンスは不思議な役割を果たした人間と言える。
 
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