「福澤諭吉」の版間の差分

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=== 漢学について ===
諭吉は[[漢学]]を徹底批判した。そのため[[孔子|孔]][[孟子|孟]]崇拝者から憎悪されたが、そのことについて諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若い頃から心がけていました。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らない風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられない」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができないと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている<ref>[[#小泉(1966)|小泉(1966)]] pp.90f</ref>。
 
『文明論之概略』では[[孔子]]と[[孟子]]を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「[[政教一致]]」の欠点を指摘した<ref>[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む(中)第八講</ref>。『学問のすすめ』においては、孔子の時代は二千余年前の野蛮草昧の時代なので天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、二千年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた<ref name="杉原(1995)40f">[[#杉原(1995)|杉原(1995)]] pp.40f</ref>。