「成田空港問題」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
122行目:
強権の発動で新東京国際空港を開港させた政府だったが、開港後も強固な反対派住民の土地取得はままならず、空港二期工事(第2空港ターミナルビル周辺の整備・B滑走路の建設)の着工する事さえ覚束ない状況が続いた。また、二期地区周辺は支援活動家らが頻繁にパトロールをしており、党派との接点が多い反対派農家も「援農<ref group="注">当初援農は、闘争で遅れた農作業を取り戻すための支援という位置づけであったが、周辺の空港公団が取得した用地までも支援の学生らに耕作させることで(当然違法耕作であり、[[税務署]]が捕捉できない。)私腹を肥やす農家も現れた(前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年、40-41頁)。公団名義の土地の耕作は"雑草駆除"を理由に"自主耕作"という名称で始められ、そこで得られた収益は部落会計に回されるはずだった([[東峰十字路事件#福田克彦|福田克彦(2001年)]]44頁)。</ref>」の名目で外出・電話・郵便物など私生活の細部に亘ってチェックを受けていて、用地交渉担当者の接触が困難になっていた<ref>{{Cite book|author=公安調査庁|title=成田闘争の概要|year=1993|publisher=|pages=80-81}}</ref>。
 
しかし、[[冷戦]]終結や当時の[[運輸大臣]][[江藤隆美]]による謝罪を契機として、話し合いの機運が再び生まれ、成田空港問題解決が模索された。[[1991年]]([[平成]]3年)[[11月]]から、[[隅谷三喜男]][[東京大学]]名誉教授ほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもと、熱田派との15回に亘る「[[成田空港問題円卓会議|成田空港問題シンポジウム]]」が開催され、熱田派・運輸省・空港公団・千葉県で公開討論会などを通して成田空港問題解決模索さ行われた。ここで旧熱田派は「強制的手段をとらない」との言質を国から引き出すことに成功し、更に引き続き[[1993年]](平成5年)9月から12回に亘って開催された「[[成田空港問題円卓会議]]」で、今後の新東京国際空港の整備を[[民主主義]]に基づく対等な話し合い手続きで進めていくことが確認された。
 
円卓会議の結論を受け、最終的には[[1995年]](平成7年)に、当時の[[内閣総理大臣]]・[[村山富市]]が、それまでの政府による強権姿勢を政府を代表して謝罪し、[[土地収用法]]に基づく[[行政代執行]]による成田空港の土地強制収用の手段を放棄した。この謝罪は地元の一定の評価を得て、その後二期工事への[[土地収用]]と集団移転に応じる[[農民]]・[[地主]]が出てきた。