「武蔵坊弁慶」の版間の差分

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== 生涯 ==
上記後述のような広く知られる弁慶の生涯は、『[[義経記]]』を中心とした後世に成立した創作を基にしたもので、当時の文献においては『[[吾妻鏡]]』[[文治]]元年([[1185年]])[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]条に
 
{{quotation|前中將時實。侍從良成〔義經同母弟。一條大藏卿長成男〕伊豆右衛門尉有綱。堀弥太郎景光。佐藤四郎兵衛尉忠信。伊勢三郎能盛。片岡八郎弘經。'''弁慶法師'''已下相從。彼此之勢二百騎歟云々。}}
 
[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]条に
 
{{quotation|相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。'''武藏房弁慶'''并妾女〔字靜〕一人也。}}
 
と、義経郎党の一人として名が記されているのみである。これは『[[平家物語]]』においても同様で、いずれも出自や業績、最期等については全く触れられていない。
 
『吾妻鏡』ほか『[[玉葉]]』によると、都落ちの後、周辺に潜伏する義経を比叡山の[[悪僧]](僧兵)らが庇護しており、その中の俊章(しゅんしょう)という僧は、義経を奥州まで案内したとされる。また文治5年(1189年)1月13日には、義経が京に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の悪僧・千光房七郎(せんこうぼう しちろう)が[[北条時定 (平安時代)|北条時定]]([[北条時政|時政]]の甥)に捕縛されている。この七郎は『吾妻鏡』文治四年(1188年)[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]条によれば、悪徒浪人を集めて悪行を働いた咎でお尋ね者になっていた僧侶である。これら義経を庇護した複数の比叡山悪僧の所業が集められ、誇張されて後述の武蔵坊弁慶の伝説が構成されたのではないかとする説がある。
 
== 史実創作物の弁慶 ==
=== 誕生 ===
[[熊野別当]](『[[義経記]]』では「弁しょう」、『[[弁慶物語]]』では弁心)が、二位[[大納言]]の姫を強奪して生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは[[鬼子]]だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて'''鬼若'''<ref group="注釈">『義経記』では「鬼若」、『弁慶物語』『[[橋弁慶]]』『じぞり弁慶』では「若一(にゃくいち)」、『武蔵坊弁慶物語』では「わか一」の幼名となっている。</ref>と命名され、[[京都市|京]]で育てられた。
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なお、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱して[[青森県|奥州の北端]]や[[北海道|蝦夷地]]へ逃れたとする、いわゆる「[[源義経#不死伝説|義経北行伝説]]」にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。
 
== 史実の弁慶 ==
上記のような広く知られる弁慶の生涯は、『[[義経記]]』を中心とした後世に成立した創作を基にしたもので、当時の文献においては『[[吾妻鏡]]』[[文治]]元年([[1185年]])[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]条に
 
{{quotation|前中將時實。侍從良成〔義經同母弟。一條大藏卿長成男〕伊豆右衛門尉有綱。堀弥太郎景光。佐藤四郎兵衛尉忠信。伊勢三郎能盛。片岡八郎弘經。'''弁慶法師'''已下相從。彼此之勢二百騎歟云々。}}
 
[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]条に
 
{{quotation|相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。'''武藏房弁慶'''并妾女〔字靜〕一人也。}}
 
と、義経郎党の一人として名が記されているのみである。これは『[[平家物語]]』においても同様で、いずれも出自や業績、最期等については全く触れられていない。
 
『吾妻鏡』ほか『[[玉葉]]』によると、都落ちの後、周辺に潜伏する義経を比叡山の[[悪僧]](僧兵)らが庇護しており、その中の俊章(しゅんしょう)という僧は、義経を奥州まで案内したとされる。また文治5年(1189年)1月13日には、義経が京に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の悪僧・千光房七郎(せんこうぼう しちろう)が[[北条時定 (平安時代)|北条時定]]([[北条時政|時政]]の甥)に捕縛されている。この七郎は『吾妻鏡』文治四年(1188年)[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]条によれば、悪徒浪人を集めて悪行を働いた咎でお尋ね者になっていた僧侶である。これら義経を庇護した複数の比叡山悪僧の所業が集められ、誇張されて武蔵坊弁慶の伝説が構成されたのではないかとする説がある。
 
== 能・歌舞伎 ==