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家業は小料理屋で、芝居好きの父親から影響を受ける。[[阪南大学高等学校|大鉄]]教習所卒業後、[[鉄道省|国鉄]]に勤務<REF>日外アソシエーツ現代人物情報</REF>。
 
[[1938年]]に応召、鳥取の連隊に入隊(階級は[[一等兵]])するも粟粒性[[結核]]に罹り、永久服役免除され療養生活に入る。[[1939年]]に岡山県の療養所にて<ref>[[読売新聞]] 2017年3月24日 夕刊9面 「レジェンド」 脚本家 橋本忍 ひたすら書く 忍耐の黒子(武田裕芸)</ref><ref>著書『複眼の映像』</ref>隣にいた兵士の読んでいた『日本映画』という映画の本を読み、[[シナリオ]]に興味を持ち、隣の兵士に「日本で一番偉い脚本家は誰か」と訊ねたところ「[[伊丹万作]]」と返ってきたため、脚本家を志す。
 
[[1942年]]、療養所を退所して郷里に帰った後に執筆したシナリオ『山の兵隊』を伊丹本人に送ったところ、思いがけず返信があり、以降、姫路市の軍需会社に勤務しながら、伊丹の「唯一の脚本家としての弟子」としてシナリオの指導を受ける。[[1946年]]の伊丹死去の、翌年([[1947年]])の一周忌の折りに、伊丹夫人より[[佐伯清]]監督を紹介される<ref>伊丹への師事の経位については『複眼の映像』より</ref>。