「1969年のメジャーリーグベースボール」の版間の差分

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以下は、'''[[メジャーリーグベースボール]](MLB)'''における[[1969年]]のできごとを記す。
 
1969年[[4月7日]]に開幕し[[10月16日]]に全日程を終え、[[ナショナルリーグ]]は[[ニューヨーク・メッツ]](東地区優勝)が1962年に球団創立以来8年目にして初のリーグ優勝で、[[アメリカンリーグ]]は[[ボルチモア・オリオールズ]](東地区優勝)が3年ぶり3度目のリーグ優勝であった。[[ワールドシリーズ]]はニューヨーク・メッツがボルチモア・オリオールズを4勝1敗で破り、初のワールドシリーズ制覇となった。この年から[[ナショナルリーグ]]は[[サンディエゴ・パドレス]]と [[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポズ]] が新規加盟し、[[アメリカンリーグ]]は[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]と[[ミルウォーキー・ブルワーズ|シアトル・パイロッツ]] が新規加盟して両リーグとも12球団となり、それぞれ東西に地区を分けて東地区と西地区で優勝を争い、地区優勝したチーム同士でリーグ優勝決定シリーズ([[リーグチャンピオンシリーズ]])を行い、勝ったチームがリーグ優勝チームとして[[ワールドシリーズ]]に進出する制度に変更した。
 
この年から[[ナショナルリーグ]]は[[サンディエゴ・パドレス]]と [[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポズ]] が新規加盟し、[[アメリカンリーグ]]は[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]と[[ミルウォーキー・ブルワーズ|シアトル・パイロッツ]] が新規加盟して両リーグとも12球団となり、それぞれ東西に地区を分けて東地区と西地区で優勝を争い、地区優勝したチーム同士でリーグ優勝決定シリーズ([[リーグチャンピオンシリーズ]])を行い、勝ったチームがリーグ優勝チームとして[[ワールドシリーズ]]に進出する制度に変更した。
== できごと ==
ナショナルリーグ
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翌1970年1月16日にフラッドは裁判に訴えた。このフラッド訴訟は連邦最高裁判所までいった。[[カート・フラッド]]事件の始まりであった。
===審判と野球機構の対決 ===
前年秋に突然起こった審判2名の解雇事件は、その後にストライキは実行されないままにシーズンに入り、審判協会の弁護士ジャック・レイノルズが9月23日にリーグ会長とコミッショナーを相手にそれぞれ100万ドルの訴訟に踏み切った。しかし連邦裁判所は野球は反トラスト法の範囲外であるとして却下された。ところがこの年12月に全国労働争議調整局が「野球はタフト・ハートリー法の適用を受ける」とする見解を示し事態は一変した。この問題は翌1970年に持ち越された。
===ミッキー・マントルの引退===
シーズン前の春のキャンプ地フォート・ローダーデールでヤンキースの[[ミッキー・マントル]]は「もう野球ができない体になった」として引退を表明した。1964年にリーグ優勝して翌年から打率が.255 ー.288 ー.245ー.237と落ちていき、通算打率は.298で3割を割り、本塁打はこの4年間で82本で通算536本となった。デビューした時あれほど輝いていた彼の肉体は両足の故障に肩の痛みでボロボロであった。[[ウィリー・メイズ]]はこの年に通算600本の大台にのせ、[[ハンク・アーロン]]は前年までに510本を打った。そして6月8日にヤンキースタジアムで「ミッキー・マントル・デー」として引退式が行われ、約6万1,000人の観客を前に「私はこれまで、まさに死のうとする人間がここに立って世界で一番幸せな人間だと言えるか、疑ってきました。今、私は[[ルー・ゲーリック]]がどう感じたかが分かりました」と述べた。ワールドシリーズに12回出場して本塁打18本を打ったこと、今も最長記録の565フィート(172メートル)の特大本塁打を打ったこと、本塁打52本を打って三冠王を取ったことが彼の数少ない輝かしい記録である。1974年に親友の[[ホワイティ・フォード]]とともに殿堂入りした。
===投高打低の打開===
前年、歴史的なピッチャーの年として記憶されるほどだった極端な投高打低現象について、大リーグ側の反応は早かった。すぐに打撃の不振についてその打開策の検討に入った。原因について、①投手のリリーフ陣が専門化し分業化と余裕を持ったローテーションで投手力総体が向上した、②球場が広くなり左右対称型が増えて守備力の向上と打者が本塁打を打とうとする傾向がある、などの他にナイターが増えた、試合数の増加と飛行機の移動が全米規模になったことなどを挙げる専門家もいたが、連盟がその最大の原因としたのは1963年に行ったストライクゾーンの拡大であった。これは、その時に野球はスローペースで展開が遅く、スピードのあるフットボールに客を取られているとの指摘に敏感に反応して試合の展開を早くするために拡大したものだった。そこでこの年に早速ストライクゾーンの範囲を狭め、あわせてピッチャーズマウンドの高さをそれまでの15インチから10インチに下げる処置を講じた。これ以降、打撃面での成績は改善したが、一方で人工芝を採用する球場が増えてきたことも改善に貢献したという見方もある。
== その他==
*両リーグ12球団制となり、合計24球団になったこの年の観客動員総数は、両リーグ合わせて2,722万5,765人であった。半分の12球団がそれぞれ100万人の大台を超え、優勝したニューヨーク・メッツの観客動員数は217万5,373人であった。
== 最終成績 ==
=== レギュラーシーズン ===
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* 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪ミッキー・マントル≫ 117P参照
* 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000(1969年) 110P参照 上田龍 著 2001年10月発行 ベースボールマガジン社
* 『メジャー・リーグ球団史』≪ボルチモア・オリオールズ≫ 58P参照 出野哲也 著  2018年5月30日発行 言視社
* 『メジャー・リーグ球団史』≪カンザスシテイ・ロイヤルズ≫ 248P参照
* 『メジャー・リーグ球団史』≪ミルウォキー・ブルワーズ≫ [短命だったパイロッツ] 320P参照
* 『メジャー・リーグ球団史』≪ミネソタ・ツインズ≫ 344P参照
* 『メジャー・リーグ球団史』≪ニューヨーク・メッツ≫ 358-359P参照  
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* 『さらばヤンキース ~運命のワールドシリーズ~ (原題 OCTOBER 1964)』下巻 ≪ガッシー・ブッシュ≫ 309-313P参照  [[デイヴィッド・ハルバースタム]]著 水上峰雄 訳  1996年3月発行 新潮社
* 『実録 メジャーリーグの法律とビジネス』≪第3章 野球の独占禁止法免除 10)フラッド訴訟≫ 63P参照  ロジャー・I・エイブラム著 大坪正則 監訳 中尾ゆかり 訳 2006年4月発行 大修館書店
* 『スペクテイタースポーツ』≪大リーグ側の反応≫ 156-157P参照 ベンジャミン・G・レイダー著 川口智久/監訳 平井肇/訳 1987年11月発行  大修館書店
== 関連項目 ==
* [[1969年の野球]]