「ピョートル3世 (ロシア皇帝)」の版間の差分

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ペーターはまた絵画とイタリアの音楽を好み、ヴァイオリンの演奏に時間を忘れて熱中した。ドイツでは子供の音楽教育にはオルガンが使われる事が常だったが、ペーターは難しいヴァイオリンを選んだ。5歳の時に猟場の番人が弾くヴァイオリンを偶然聞いて以来、彼はヴァイオリニストになりたがっていた<ref name=inna>{{cite web|url=https://innadocenko.livejournal.com/13683.html|title=Император Петр III|date=2015-06-03|publisher=livejournal|accessdate=2019-01-21}}</ref>。本職の楽団に入れる程の腕前だったという。
 
1741年12月、叔母の[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]がクーデターでロシア女帝の位につくと、未婚で子供の無い彼女はすぐにペーターを養子にし、後継者に指名した。ロシア帝国の開祖・ピョートル大帝の血を引く男子はペーターただ1人だったからである。ところがペーターは母親がロシア皇女だっにも拘らず、幼い頃から受けていたスウェーデン王位継承者としての愛国教育で、スウェーデンの長年の敵対国ロシアへの敵愾心を涵養していた<ref name=vidania>{{cite web|url=http://www.vidania.ru/personnel/petr_3_fedorovich.html|title=Петр III Федорович|date=2017-11-01|publisher=vidania.ru|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
 
=== ロシア皇太子として===
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ピョートルはロシアでも良い教育を受けられなかったとされる。女帝エリザヴェータの母親・[[エカチェリーナ1世]]は[[リヴォニア]]の農民出身で酒を好み、生涯文盲であったと言われる。その娘であるエリザヴェータは優しく気の良い女性であったが、反面激しやすく、些細なことで廷臣や召使い達を口汚く罵ったという。また、ダンスに長じ、旅行、観劇、仮装舞踏会に明け暮れ、聖書以外の本を読んだことがなく、大国の元首でありながら地理にも疎く、ロシアからイギリスまで地続きで行けるものと生涯信じていた程である<ref name=悲運の王家>新人物往来社"皇女アナスタシアとロマノフ王朝-数奇な運命を辿った悲運の王家-"p103-p104</ref>。ピョートルは皇太子として女帝の仮装舞踏会や長期の旅行に付き合わされる事になった。こうした勤勉とは程遠い享楽的な環境が思春期のピョートルに影響を与え、養育係・{{仮リンク|ヤコブ・シュテリン|ru|Штелин, Якоб}}が不安視した怠惰と虚栄心、動物への虐待といった生来の幼児性を増幅させていったとされる<ref name=russiapedia>{{cite web|url=https://http://www.vidania.ru/personnel/petr_3_fedorovich.html|title=Prominent Russians: Peter III|date=2017-11-01|publisher=Russiapedia|accessdate=2019-01-14}}</ref> 。彼はロシア語を覚えようとせずドイツ語で話し、正教会の儀式やロシア人の信仰心を公然と嘲笑した。教会での祈祷中に聖職者の真似をするという非常に無礼な振舞いをすることもあった<ref name=artmuseum>{{cite web|url=http://www.artmuseum.by/ru/vyst/virt/imperator-petr-iii/|title=Император Петр III |publisher=Национальный художественный музей Республики Беларусь|accessdate=2019-01-14}}</ref>。ピョートルはロシアの皇位継承者でありながら、ロシア人やロシア的なものを軽蔑していたのである。特に嫌ったのはロシア式サウナ・[[バーニャ]]であった。
 
一方でホルシュタイン=ゴットルプ公でもあった彼は、プロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]に心酔しており、彼のミニチュアの肖像の指輪を嵌め、廷臣たちの前で胸像に恭しく接吻したり、肖像画の前で跪いたりした。当然、反プロイセン政策をとるエリザヴェータとしばしば衝突した。歴史家クリュチェフスキーによると、ピョートルは『本物の勇敢なプロイセン戦士』になるために連日酒宴を開いて大酒を飲み<ref>[[]]を患った原因とも言われる。家庭教師による授業中も長く椅子に座っている事が困難で、室内を歩き回ったという。しかし彼の飲酒についてはエカチェリーナ以外は誰も触れておらず、ピョートルはむしろ酒を飲まなかったのではないかという研究者もいる。</ref>、夕方まで素面でいることは少なく<ref name=悲運の王家/>、エリザヴェータは彼を後継者に選んだ事を早々に後悔したが、姉の忘れ形見である彼の行動を大目に見ていたという<ref name=vidania/>。
 
皇太子ピョートルの『奇行』の数々は、これまで専門家の間でも定説として長く語られ続けていた。しかしそれは「怠惰で知能が低い」「[[:ru:Русофобия|ルソフォビア]]([[反露]])」と印象付けるためのクーデター側による[[プロパガンダ]]である可能性が高いと、{{仮リンク|アレクサンドル・ミリニコフ|ru|Мыльников, Александр Сергеевич}}以降多くの研究者が指摘している。
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ピョートルは音楽への情熱を持ち続けていた。彼はエリザヴェータに隠れてプロのイタリア人ヴァイオリニストから指導を受けていた。エリザヴェータにとって音楽家は「賤業」であり、皇位継承者がそのような真似をするなど以ての外であった。一方、当時のロシアの宮廷では、音楽は専らイタリアから招聘した音楽家に頼っていた。歌曲をロシア語で歌える歌手もいなかった。[[バラライカ]]だけがロシア人による演奏であった。ピョートルはこの状況を良しとせず、オラニエンバウムの宮殿内にペテルブルクで最初のオペラ劇場と音楽学校を造った。クレモナ、アマティ、シュタイナーといった良質な楽器を取り寄せ、中流階級の才能のある子供を集め、ピョートル自らヴァイオリンの指導をすることもあった。彼の教え子の中に、後に18世紀ロシア最高のヴァイオリニストとなる[[イワン・ハンドシキン]]がいた。冬の間は週に一度、午後4時から9時までコンサートが開かれた。宮殿内の劇場は[[マクシム・ベレゾフスキー]]の初舞台となった。ピョートルの尽力によってロシアの音楽文化は発展の端緒についたのである<ref name=inna/>。
 
結婚から9年後の1754年10月1日、最初の子'''[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィチ]]'''が生まれた。夫婦がなかなか子供に恵まれなかった為、噂好きな宮廷の人々の好餌となったが、どの説も(エカチェリーナ自身の回想録での告白も含めて)、はっきりした証拠は無い<ref>最もよく知られた説が、ピョートルの[[包茎]]が原因であり、結婚後も夫婦関係は無かったが手術によって機能を回復したというものである。一方エカチェリーナは回想録で「夫は"方法"を知らなかった」と述懐しているが、ピョートルが結婚の翌年、エカチェリーナに宛てた手紙には「今夜を私と過ごさねばならぬか、などと心配しないで欲しい。私たち2人にとって1つのベッドはもはや狭すぎることになった。お前と二週間断絶したあとで、お前に夫と呼んでもらえぬ哀れな夫は・・・(後略)」と書かれている。この内容を見る限り、妻のほうが夫を嫌って遠ざけていたように取れる。{{cite web|url=https://jp.rbth.com/arts/2013/07/09/2_43987|title=エカテリーナ2世がクーデター|date=2013-07-09|publisher=RUSSIA BEYOND|accessdate=2019-01-14}}</ref>。パーヴェルはエリザヴェータの元で育てられる事になり、ピョートルは週に一度、息子に会う事を許された。結局、子供の存在が夫婦を近づける事にはならなかった。
 
ピョートルは[[ミハイル・ヴォロンツォフ]]伯爵の姪{{仮リンク|エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ|ru|Воронцова, Елизавета Романовна|en|Elizaveta Vorontsova}}を愛人とし、エカチェリーナも{{仮リンク|セルゲイ・サルトゥイコフ|ru|Салтыков, Сергей Васильевич|en|Sergei Saltykov (1726–1765)|label=セルゲイ・サルトゥイコフ公爵}}始め複数の愛人を持った<ref>世継ぎが生まれないことにしびれを切らしたエリザヴェータがエカチェリーナに愛人を持つことを許したと、エカチェリーナは回想録で告白しており、パーヴェルはピョートルの子でなく、サルトゥイコフの子であると示唆している。しかし肖像画に見るピョートルとパーヴェルの風貌には類似点があり、性格も共通するものがある。実はエカチェリーナの最大の脅威であったパーヴェルの、皇帝の座につく正統性を毀損したいがためのエカチェリーナの作話だったと推察する研究者は少なくない</ref>。ピョートルは未来の皇帝として、宮廷の如何なる美女でも思いのままに選べた筈だが、ヴォロンツォヴァは宮廷で笑い者にされている大変な醜女であった。酒好きの彼女のオリーブ色の顔は痘痕だらけで、フランス大使ファヴィエは「ヴォロンツォヴァの醜さは言葉で言い表せない程である」と著書に記している。しかしヴォロンツォヴァはピョートルがこれまでの人生で一度も得られなかった温かさを持っていた。ピョートルのヴァイオリンを何時間でも聴く事ができ、彼の飼い犬を可愛がり、彼の気まぐれに付き合う事の出来る愉快な女性だった<ref name=reading/><ref>[[アンリ・トロワイヤ]]による伝記を元にした[[池田理代子]]の「女帝エカテリーナ」では、飲んだくれで醜女のヴォロンツォヴァを愛人にすることで、「お前はこのような女にも劣る」と妻のエカチェリーナを侮辱したと解釈されている。</ref>。ピョートルとヴォロンツォヴァ、エカチェリーナとその愛人の[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]の4人で晩餐を共にする事も度々あったという。ポニャトフスキは非常に洗練された物腰の美男であった<ref name=vidania/>。