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=== 鄧小平の政策 ===
1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた鄧小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。また、同年11月には、シンガポールの外資誘致の実態を見学した。これらの海外視察から帰国した鄧小平は、[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]](同年12月)において、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出した。
 
その代表的な経済政策のひとつが、「改革・開放」政策[[香港]]に隣接する[[広東省]]一環であ[[深セン]]をはじめとする[[経済特区]]の設置である。一部地域に限りこの外資導入を許可・促進すによことで経済成長を目指すというこ[[輸出志向型工業化]]の政策は、その後、きわめて大きな成果を収めた。しかし、政治面では[[共産主義]]による中国共産党この彼指導と一党独裁を強調し、経済面では[[生産力主義プラグマティズム]]に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「'''白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である'''」(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」<ref>実際の発言は「白猫」ではなく「黄猫」である([[矢吹晋]]『鄧小平』、講談社現代新書版71-72ページ)。</ref>に表れている。しかし、この改革開放はかつての[[洋務運動]]のように政治的には共産党独裁体制の改革を避け、かつての[[広東システム]]のように経済的には一部地域に限った管理貿易で全面的なものではなく、その二面性は「'''窓を開けば、新鮮な空気とともにハエも入ってくる'''」(打开窗户,新鲜空气和苍蝇就会一起进来)という発言にも表れている<ref>R. MacKinnon "Flatter world and thicker walls? Blogs, censorship and civic discourse in China" Public Choice (2008) 134: p. 31–46, Springer</ref>
 
[[1984年]]3月には訪中した当時の[[中曽根康弘]]首相は鄧小平ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や[[中日友好病院]]、[[日中青年交流センター]]設置などで一致し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ<ref>「中曽根首相・鄧主任の会談要旨」[[朝日新聞]]、1984年3月26日</ref>、沿海部の経済特区指定も重なり、これ以降日本の対中直接投資は本格化する。一方で当時の[[胡耀邦]]総書記と比較して鄧小平は[[靖国神社問題]]などで日本に批判的であり、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して[[愛国主義]]教育を推進するよう指示を出して[[南京大虐殺紀念館]]をつくらせた<ref>[[笠原十九司]]『体験者27人が語る南京事件』[[高文研]]</ref>。
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1988年8月に中国訪問した[[竹下登]]首相と巨額の第三次円借款実施や[[日中投資保護協定]]の締結などで合意し、鄧小平はさらなる対中投資を要請<ref>「鄧小平会見竹下登時説中日関係応以相互信任為基礎」[[人民日報]]、1988年8月26日</ref>して後に日本側で[[日中投資促進機構]]が創設される。[[日本放送協会|NHK]]と[[中国中央電視台]]が共同制作した[[NHK特集 シルクロード|シルクロード番組]]で起きた当時の日本の「[[シルクロード]]ブーム」を受け<ref>王坤「中国側から見る日中経済協力 : 1979~1988年の『人民日報』の対中ODA 報道を中心に」OUFCブックレット 3, 313頁, 2014-03-10</ref>、[[日中友好環境保護センター]]も設置された。
 
1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた鄧小平は、[[1992年]]の[[春節]]の頃の[[1月18日]]から[[2月21日]]にかけて、[[深セン市|深圳]]や[[上海市|上海]]などを視察し、[[南巡講話]]を発表した。経済発展の重要性を主張するのみならず、[[ペレストロイカ]]によるソビエト連邦の解体などを例にとって「経済改革[[和平演変]]による共産党支配体制の崩壊をもたらす政治改革につながる」と主張する党内保守派に対して、これを厳しく批判した南巡講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。
 
=== 死去 ===