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=== 鄧小平の政策 ===
1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた鄧小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。また、同年11月には、シンガポールの外資誘致の実態を見学した。これらの海外視察から帰国した鄧小平は、[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]](同年12月)において、それまでの
その代表的な経済政策のひとつが、
[[1984年]]3月には訪中した当時の[[中曽根康弘]]首相は鄧小平ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や[[中日友好病院]]、[[日中青年交流センター]]設置などで一致し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ<ref>「中曽根首相・鄧主任の会談要旨」[[朝日新聞]]、1984年3月26日</ref>、沿海部の経済特区指定も重なり、これ以降日本の対中直接投資は本格化する。一方で当時の[[胡耀邦]]総書記と比較して鄧小平は[[靖国神社問題]]などで日本に批判的であり、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して[[愛国主義]]教育を推進するよう指示を出して[[南京大虐殺紀念館]]をつくらせた<ref>[[笠原十九司]]『体験者27人が語る南京事件』[[高文研]]</ref>。
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1988年8月に中国訪問した[[竹下登]]首相と巨額の第三次円借款実施や[[日中投資保護協定]]の締結などで合意し、鄧小平はさらなる対中投資を要請<ref>「鄧小平会見竹下登時説中日関係応以相互信任為基礎」[[人民日報]]、1988年8月26日</ref>して後に日本側で[[日中投資促進機構]]が創設される。[[日本放送協会|NHK]]と[[中国中央電視台]]が共同制作した[[NHK特集 シルクロード|シルクロード番組]]で起きた当時の日本の「[[シルクロード]]ブーム」を受け<ref>王坤「中国側から見る日中経済協力 : 1979~1988年の『人民日報』の対中ODA 報道を中心に」OUFCブックレット 3, 313頁, 2014-03-10</ref>、[[日中友好環境保護センター]]も設置された。
1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた鄧小平は、[[1992年]]の[[春節]]の頃の[[1月18日]]から[[2月21日]]にかけて、[[深セン市|深圳]]や[[上海市|上海]]などを視察し、[[南巡講話]]を発表した。経済発展の重要性を主張するのみならず、[[ペレストロイカ]]によるソビエト連邦の解体などを例にと
=== 死去 ===
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