「高田渡」の版間の差分

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[[岐阜県]][[北方町]]出身、材木商の祖父は資産家で篤志家でもあったが美濃の大震災や株の失敗で財を失う。8歳のときに母を亡くし、父である高田豊は末っ子の渡を含む息子たちを連れて東京へ宛てなく旅立つ。そして、[[東京都]][[深川 (江東区)|深川]]の援護施設やアパートで貧困生活を送る。のちに三鷹に落ち着くが、早くに父も亡くす。中卒であかつき印刷に就職、[[佐賀県]][[鹿島市]]の親戚の家での生活、新宿での一人暮らし、[[東京都立市ヶ谷商業高等学校]]夜間部への通学などを経て、フォークシンガーへの夢を一歩ずつ実現していく。音楽評論家の三橋一夫、ギター・バンジョー教室の講師であった灰田勝彦、そして憧れのピート・シーガーとの交流の中で、目標に向かってまっすぐ歩いていった。<ref>高田渡『マイフレンド 高田渡青春日記 1966-1969』([[河出書房新社]])。</ref>。
 
初期の頃は自らも詩作したが、次第に[[山之口貘]]、[[金子光晴]]、[[草野心平]]、[[石原吉郎]]らの[[現代詩]]や、[[添田唖蝉坊]]や[[添田知道]]の明治演歌をもとにした歌詞をフォークやブルーズに載せて歌った。「大・ダイジェスト盤 三億円強奪事件の唄」や「自衛隊に入ろう」「東京フォークゲリラの諸君達を語る」「事だよ」など、時事の話題を辛辣に滑稽に取り上げ、皮肉たっぷりの作風は大いに客を惹きつけた。かし、時事的で挑発的な歌は、次第に歌わなくなった。
 
吃音であり、幼少期は声が自然に出てこなかったが、歌を歌うことにより克服した。また少年期からいくつかの持病があり、病院に通っていた。「人間は、なにかコンプレックスがあると、ほかの方法でそれを乗り越えようとする。その方法というのが僕にとっては歌だったのかもしれない」と著書で語っている<ref>高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』([[ちくま文庫]])。</ref>。
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ギター演奏の名人であり、マンドリンやバンジョー、オートハープまで弾きこなすが、演奏する楽器の音は、あくまで歌の伴奏であるべきと考えていた。自らが決して恵まれない境遇から出発した人生であり、また覚悟を決めたアーティスト活動だったこともあり、岩井宏や早川義夫など、途中で音楽活動を引退しようとした仲間には、「いま辞めるのは卑怯だ」と喝破した。
 
高田渡の理念や信念については加川良が「下宿屋」で本質的に歌い語っており、また遠藤賢司はブログで、晩年に酒を飲んでステージで寝てしまうというキャラクター的な面白さで扱われたことに対して残念であると綴っている。<ref>遠藤賢司ブログ館名歌手高田渡』https://ameblo.jp/enken1947/entry-12162943225.html)」)</ref>。
 
==経歴==