「モンゴル帝国帝位継承戦争」の版間の差分

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'''モンゴル帝国帝位継承戦争'''(モンゴルていこくていいけいしょうせんそう、[[1260年]] - [[1264年]])は、[[モンゴル帝国]]の第4代[[ハーン#モンゴル帝国のハーン|大ハーン]](皇帝)[[モンケ]]の死後に、その一つ下の弟・[[クビライ]]と、一番下の弟・[[アリクブケ]]の兄弟が共に大ハーン継承を宣言して2人の皇帝が並立する南北分裂状態となったことから起きた内乱。当初はアリクブケが優勢だったが、最終的にはクビライが勝利を収め名実共に第5代大ハーンとなった。
 
古来「'''アリクブケの乱'''」の呼ばれてきたモンゴル帝国の内戦を、[[歴史理論学]]の立場から言い換えた現代的表現である。『[[集史]]』を始めとする[[ペルシア]]方面で書かれた多くの史書がアリクブケを大ハーンの一人として扱っており、開戦当初は[[ジョチ家]]・[[チャガタイ家]]などほとんどの帝国の構成員がアリクブケを支持する立場をとったことを示す資料が数多く残っている。このことから、クビライこそが当初は反乱者であり、「アリクブケの乱」という名称は勝者クビライによって後に捏造されたと考えられる。
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== 経緯 ==
モンケが死去した際、後継者候補は大きく分けてモンケの弟たち(クビライ、[[フレグ]]、[[アリクブケ]]等)とモンケの遺児(バルト、アスタイ、シリギ等)の2群があったが、このうちモンケの諸子は若すぎるため除外され、またフレグも当時遠く[[イラン]]の地で遠征を行っており、帝位争奪に参加しようと思っても間に合わないのは明白であり、除外された。結局最有力候補はクビライとアリクブケに絞られるが、正当性([[遊牧民]]の[[末子相続]]の風習)からいっても、立ち位置(当時アリクブケは帝国の本拠地たる[[モンゴル高原]]にあり、クビライは[[中国]]に遠征の途中だった)からいってもアリクブケがかなり優勢だった。その上、クビライは生前のモンケと南宋侵攻の方針で対立しており、モンケの旧臣、遺児たちもこぞってアリクブケを支持しており、クビライは圧倒的に不利な状況にあった。
 
しかし多くの者がクビライの性急な北還を予想している中で、クビライはあえて南進を続け、鄂州を攻め始めた([[モンゴル・南宋戦争|鄂州の役]])。これには急いで北還することで配下の軍、特に[[漢人]]部隊が離散することを防ぐため、そしてあえて南宋遠征軍全体の殿軍を務める形をとることで、モンケの死により散り散りになった諸将を味方に引き入れるという目的があった。結果的にこの狙いは見事に的中し、遠征途上にあったモンゴル軍の諸将は続々とクビライの下に結集し、特に[[東方三王家]]の軍を率いる[[タガチャル]]がクビライの陣営に入ったことで、日和見を決め込んでいた多くの軍団もクビライ軍に合流した。クビライは、金蓮川([[開平]])の[[チャブイ]]からの密使から、金蓮川の[[アラムダル]](阿藍答児、{{lang-zh|阿藍答兒}})と[[燕京]]の[[ドルジ (モンケ家の寵臣)|ドルジ]]({{lang-zh|脫里赤}})が民兵の徴集を開始しており、至急北還するよう催促された。ここに至ってようやくクビライは全軍に北還を命じた。また、敵中で孤立しかかっていたものの、クビライの南下によって助かった[[ウリヤンカダイ]]軍も途中で参加し、[[1260年]]、クビライは本拠地、金蓮川で[[クリルタイ]]を開き、皇帝(大ハーン)即位を一方的に宣言した。一方、アリクブケ側はなまじ正当性があったが故にかえって積極的に行動を起こすことができず、クビライの即位を聞くとそれにせき立てられるようにして、こちらもクリルタイを開き大ハーンに即位した。