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== 人物・来歴 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 183-S47421, Herbert von Karajan.jpg|200px|thumb|カラヤン(1938年)]]
カラヤンは[[1908年]]に[[ザルツブルク州]]の[[ザルツブルク]]で、騎士 (Ritter) の子として生まれた。兄のヴォルフガング([[1906年]] - [[1987年]])も後に音楽家になっている。ザルツブルクの[[モーツァルテウム音楽大学|モーツァルテウム音楽院]]と[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]で学んだ後、親の買い上げた[[オーケストラ]]によりザルツブルクでデビュー。[[ドイツ]]の[[ウルム]]市立歌劇場の総監督から誘いが来て、[[1929年]]に『[[フィガロの結婚]]』でオペラ指揮者として脚光を浴び、[[1934年]]には同国[[アーヘン]]市立歌劇場で音楽監督に就任した。[[1938年]]の[[ベルリン国立歌劇場]]における[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]の『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌[[1939年]]にはベルリン国立歌劇場および[[ベルリン国立歌劇場管弦楽団|ベルリン国立管弦楽団]]の指揮者の地位を得た。この時代に[[ゴットフリート・フォン・アイネム]]が[[ベルリン国立歌劇場]]でコレペティトゥアとして雇用されカラヤンとともに勤務していた。イタリアの[[スカラ座|ミラノ・スカラ座]]で[[オペラ]]を指揮することとなった。
 
[[1946年]]、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]との第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の党員であった<ref>[[1933年]][[4月8日]]、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だった[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]への入党手続きをとった。ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年[[5月1日]]に[[ウルム]]で再入党している。当時のことを後年「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは[[1935年]]、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。ただし、[[リチャード・オズボーン]]著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。</ref> ことを理由に、[[ソビエト連邦|ソ連]]の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし、翌[[1947年]]には再び処分保留となった。