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{{Otheruses|思想学者の高田眞治|テレビプロデューサー|高田真治}}
'''高田 眞治'''(たかた しんじ、[[1893年]][[8月6日]] - [[1975年]][[11月24日]]<ref name="kotobank"/>)は、中国哲学者<ref name="kotobank">[http://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E7%94%B0%20%E7%9C%9F%E6%B2%BB-1648179 高田 真治とは]コトバンク。2019年2月15日閲覧。</ref>、<!-- 支那思想学者、 --><!-- 出典を確認できません -->文学博士<ref name="kotobank"/>、元[[東京大学|東京帝国大学]]教授<ref name="jinji13">[{{NDLDC|1070514/108}} 『人事興信録 第13版 下』]タ118頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月15日閲覧。</ref>
 
== 人物 ==
大分県宇佐町生まれ。1920高田豊市の三男<ref name="jinji13"/>。[[1917]]、東京帝国大学文科大学支那哲学科卒業<ref name="kotobank"/><ref>[{{NDLDC|940168/381}} 『東京帝国大学一覧 從大正6年 至大正7年』]学士及卒業生姓名 文学士 哲学科228頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月15日閲覧。</ref>。水戸高等学校教授、24年京城帝国大学予科教授、28-30年ドイツに留学、30年東京帝大助教授、米国、中華民国に留学、帰国後1934年教授、1936年[[文学博士]]となる。また1932年に漢学会を設立し、『漢学会雑誌』を創刊、国家主義的思潮に沿って東京帝大支那哲学文学科を指導、敗戦により教員不適格とされ、1948年退職。56年[[大東文化大学]]教授、63年定年となる。長い沈黙を経て、『[[詩経]]』の全注釈を上梓した。子は中国文学者の[[高田淳]]
 
== 家族・親族 ==
; 高田家 
[[大分県]]、東京[[杉並区]]<ref name="jinji13"/>
* 妻・'''ユキ'''([[新潟県|新潟]]、皆川正禧の長女)<ref name="jinji13"/>
: [[1902年]] -
* 男・'''[[高田淳|淳]]'''<ref name="jinji13"/>(中国文学者)
: [[1925年]] - [[2010年]]
* 娘<ref name="jinji13"/>
 
==著述==
* 『[[易経]]』[[岩波文庫]], 1937
* 『詩経 漢詩大系1.2』集英社 1966-68
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正6年 至大正7年』東京帝国大学、1913-1924年。
* 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
 
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